この本、不屈館で閲覧可能です。
コピーもさせて貰えます(一部5円だったような)。
那覇市歴史博物館でも、
予め申請をしておくとコピーさせて貰えます。
コピー代は、一部5円だったか10円だったか
ちょっと、忘れました^^;
で、私は この本の中から
このページだけを
なぜ、コピーしようと思ったのか
忘れたのですが(・・、)
せっかくなので^^;
一部分を書き出しておこうと思います。
ーーーーーーー引用ーーーーーーーー
<第三章> Ⅳ 復帰運動の歩み
奄美復帰運動の評価
*沖縄、小笠原返還同盟全国理事、
県本部副会長、何故支部長 吉田慶喜
『南海日日新聞』1965年10月27日~30日
【在沖縄奄美出身者その法的地位】と題する論文を寄稿している。
吉田は「これは(奄美出身者の不当な差別待遇)アメリカの20年にわたる沖縄占領の布告、布令体制の中で作り上げられてきたものであり、その植民地的政策をもっとも露骨に現したものである。しかも、沖縄の支配者であるアメリカは、沖縄が祖国から分離されている中で一足先に復帰した奄美の出身者を、沖縄県民よりひどくみじめな状態に追いやることで、占領支配を下から支えるてことして利用してきたのである」
吉田慶喜は、いちおう奄美出身者が政治的、経済的に差別され、惨めな生活を余儀なくされているその根源は、アメリカの占領支配にあるという点を認めながらも、続いて次のように言う。
「多くの人達(奄美出身者)が沖縄でありつけた仕事といえば、軍労務それも重肉体労働の下働き、この労働条件は、自分一人食うのがやっとという低賃金、畳、かや、食器さえ満足にない飯場での生活、いつ首切られても文句一ついえないひどいものであった。沖縄の人々からもあらゆる犯罪をまきちらすやっかいもののようにみられた。これは、悲しい過去であるが、忘れ去るわけにはいかない。
こういう苦しみから解放を求めて闘った復帰運動のかいあって、1953年8月8日”奄美の復帰”が発表され、このニュースで島は喜びに湧き返った。」
こうした観点に立てば、沖縄県民も敵対者として向こうに回すことになる。しかし、復帰運動の歴史は、このような見方が誤りであることを実証している。
ーーーーーーー引用終わりーーーーーーー
今度、沖縄へ行ったら
不屈館にも寄って、
このページの前後もコピーしてこようと思う。
このページのつづきが
どのように書かれているのか、
とても、気になる(・・)
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