誰がどう決めるのか、よくわからないトップファン。
ほかにも獲得しているバッジはあるが、このFacebookページの存在するを沢山の人に知って貰おうと思い、私のblogへも貼っておこうと思います🍀
1912年ごろ大阪に出て、西成郡(現在の此花区)にあった紡績工場で織機の見習い職工として勤める。まもなく、草創期の労働運動にも参加するようになる。
「細井和喜蔵の文学について」
1923(大正12)年になると、友人らと詩誌を発行して詩を発表したり、『種蒔く人』に寄稿したりする一方、7月から本格的に『女工哀史』執筆に入ります。そして、「飢餓におびえつつ妻の生活に寄生して」(「自序」)前半を書き上げたところで、9月1日、関東大震災に遭遇するのです。妻のとしを(後に再婚して高井姓)の回想によると、住んでいたアパートは倒壊や焼失をまぬがれたものの、友人山本忠平(陀田勘助)の「早く逃げないと殺されるぞ。南葛労働組合の幹部は全員殺された。…アパートへ荷物を取りに行ったらつかまるぞ。」という忠告に従って、原稿とわずかな身の回り品を持って、二人は東京を離れます…
【大阪市此花区】
うちは、戦前に奄美から大阪へ移民した経緯もある。
戦前は、此花区という名は無かったようだ。
大阪市西淀川区高見と記されているんだもの。
私の母は、6人きょうだい。そのうちの2人が幼少期に病死している。
奄美の籍も消している。
私の母は、除籍後に生まれている。
昭和18年に、奄美へ戻らなくてはいけなくなる。
戦後、本土復帰後に再び大阪市此花区へ移住。
その頃の此花区は、西六社
尼崎にはユニチカがあったよね
同じ地図のアップです。この地図ですと、『奴隷 小説・女工哀史 1』で登場する「奴隷の島」、鼠島(隔離病院のあったところ)、江治が通った大阪府立職工学校などがはっきりと見えます。
現在はなくなってしまった伝法川、正蓮寺川も確認できます。
伊勢紡績となっているところが細井和喜蔵が勤めた後の内外綿会社であり、小説では浪華紡績となっています。春日出町という名前も見ることができます。江治の「指定下宿沢田」があったところです。
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