今年の11月、急性骨髄性白血病により他界。
母の葬儀の時、伯父の葬儀の時の話になった。
今の私は、母が亡くなったという実感も、まだないという感じ。
母が亡くなったことは、しんぶん赤旗のお悔やみ欄に載った(私の父は掲載を断るかなぁと思ってた私)。
葬儀の日には、私の父宛てに志位委員長から弔電が届いた。
それは、父が喪主だったからだろう。
って
それらの経緯は、ぶっちゃけ私にはわからない。
しんぶん赤旗のお悔やみ欄に載ったのは、家族葬が終わり、12月に入ってからだったしね。
琉大創立60周年の時に、叶わなかった事がある。
何故に、それは叶わなかったのか?
私は、その事への検証も求めるだろう💢
その件に関しては、共産党を巻き込むつもりはない。
ん?
共産党としては、どうなんだろう…
沖縄での事は、私の母が先ず知らなかったし。
伯父は伯父で、自分に妹がいる事も黙っていたから…
私は、4人きょうだいの一番上。
両親は共働き。
祖母が亡くなってからは、私が母の助っ人みたいになった。
夕飯の準備や、妹たちの世話。
母は未就園児を預かる施設に手伝いに入ったり、学童保育への指導員の手伝いには私が駆り出されたり。
地域ぐるみの子育て、色んな人との出会い。
母たちが、奄美から大阪へ移住してきたのが昭和34年。
西淀川区内の会社に就職、
沓脱タケ子さんとの出会い
父は民事裁判の原告になるなどで
週に1度、我が家に必ず人が集まった。
それは父の裁判の支援者なのか、地区の人なのか、
何にせよ、
おでんをたくさん作り、
皆で食べたり、とにかく楽しかった🍀
ハイキングなどレクレーションに参加する事も多かった🍀
*画像は、私の父と東中光雄さん。
パンフレットには、裁判中の父を応援する家族の様子も掲載。
それは、私は中学生の時。佃に住んでる時。
そういう日々だったが
とにかく、楽しかった🍀
その一方で
沖縄での事がなければ、母の人生はどうだったのかと、
これはこれで、私は毎日毎日考えてしまう。
父は、琉大事件によって人生を狂わされたんだぞ!それなのにと大激怒した。
やはり、せめて
名誉回復だよね…
沖縄の闘いって本当に何?
せめて、当事者が生きているうちに…
琉大60周年記念誌の内容は本当に残念。
何度でも言う!
私は、更なる検証を求めるだろう。
私の母は、幸せだったのかなぁ
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