1951年~1953年…沖縄での写真 ①


ネットで、たまたま見つけた、このサイト

http://d.hatena.ne.jp/ilovephoto/touch/20100131/1264912256

ーーーーー引用はじめーーーーー

"小野田正欣(おのだ まさよし)さん1929年生まれ、1951~53年の3年間、朝鮮戦争の間、沖縄に仕事で米軍基地強化のため滞在していました。仕事は、今はない大日本土木という建設会社でした。当時、特殊業務のため本土の給料の2倍をもらっていた小野田さんは、遊びに使ってしまってもしょうがないと、沖縄の写真を撮ることにしました。まず、ツァイスのセミイコンタ(6×4.5cm判)を購入し、黒白フィルムで那覇周辺を撮影し、次にライカIIIf(ズマール5cmF2付き)を購入して黒白とカラーフィルムで撮影"


"これらの黒白、カラーフィルム一式を2000年に「那覇市歴史博物館」に寄贈"


◇私の見た沖縄  -----------------------  小野田正欣(おのだ まさよし)

●沖縄への渡航

 焼土と瓦礫と化した街の古本屋をめぐり、やっと手に入れた伊波普猷『沖縄考』を唯一の知識の手掛かりとして沖縄へやってきた。学生運動が影響したのか、なかなか渡航許可かおりなかったし、台風で船ごと桜島に乗り上げたり思わぬ時間をかけての到着であった。

 終戦を陸軍航空隊で迎え、引揚援護同盟にいたりいろいろなところを観てきて、地上戦のあった沖縄がどうなっているのか自分の目で確かめたかったこともある。当時、本土では私文書の開封検閲が続き、集会(学園祭なども含む)も警察への届出を要し閉塞した空気の中にあった。朝鮮戦争の勃発は一転して日本の建設業者にも沖縄基地建設協力の要請をもたらした。私たちが関係したのは、天願基地の4万バレル地下タンク(昆布に現存するものか)、嘉手納基地の海側にある地上タンク(現存するものではない)などである。知念に米軍の地下司令部建設の噂もあったが、戦争の終結で日本人は工事完了(一部打切り)後、速やかに日本に帰れといった方針であったように思う。

●写真による記録

 米国の政策は、1953年のアイゼンハワー大統領の年頭教書にあるとおり「沖縄は無期限に保持する」と米国領としてグアム同様に扱う考えではなかったか。常に日本人・琉球人と区別し取り扱われたこともあり、当時の心境では二度とこの島へくることもない、また渡航許可をおろさないのではと思われた。

 こんな中で、沖縄の現況を記録しておこうと業務の暇をみつけ写真を撮りに歩いたのである。従ってほとんど単独行のため、同僚ですらこれらの写真があることを知らなかったのではないか。

 那覇の市場のオバアやアンマーたちの意外なほど明るくたくましく生きる姿には安心感を覚えたが、一方離島から中学卒業でそろってコザの米兵相手のバーにやって来る小柄な若い娘さんたちの姿には胸が痛んだ。50数年たった今、写真を見て米国占領統治下の時代も元気に働き、いろいろな苦難を乗りこえて島を支えてきた人々の努力を想いおこしていただければ幸いである。

●貴重なカラー写真

 私の写真を見て、まずその当時にカラー写真があったこと、ついで半世紀以上前の情景が色鮮やかに残っていたことに驚かれたのではなかろうか。

 カラーはすべてコダクロームでご覧のとおりほとんど退色・変色がなく、2000年の11月に那覇市のパレットくもじで展示した際、コダック営業所の人たちも当時の高度な技術に感心したほどである。米軍工事を担当する日本業者は、PXで煙草・菓子・せっけんなどの日用品をNon Taxでまとめて買うことができたが、カメラ・フィルム・時計などは買うことができなかった。米人の手をわずらわしてドルで買って貰う他なかった。コダクロームは20枚撮り現像代込みで、現像にはハワイまで送らねばならなかった。送料を含め1500日本円がかかり、大卒初任給5000~6000円の時代には高価なものである。住むところと食事の無償支給を受け、大卒初任給程度の手当をB円(1ドル=120B円=360円)で支給されていたので、飲む打つ買うにうつつを抜かさなければ何とかなったのである。実際に撮影した写真のうち、スナップがペリー百年祭くらいで景色が主体となっているのは、フィルムがASA10の低感度であったことによる。ASA100~800のフィルムが普通に使用される今ではちょっと考えられない事である。

●半世紀前の沖縄写真事情

 市販のモノクロは、長尺のものをパトローネに適当に切って入れた代物で、何枚撮れるかやってみなければわからない。戦果物で期限が切れているのか、現像室が高温のためか(冷房設備は皆無で扇風機があれば上等)カブッたでき上がりが普通であった。那覇ですらフィルムの現像、引き伸ばしができたのは、現在の国際通りにあった植田さん他2、3の写真機店であった。当時の国際通りは、泉崎から安里への一車線、一方通行のドロンコ道で車が1まわりしてくる間に用をたし、とび乗る芸当が必要だった。私の住んだ馬天や安慶名には取扱店といったものもまったく存在しなかった。ほとんどの村落では日暮れから11時までヤンマー発電に頼っていた時代である。

 パトローネは何度も再使用するため、テレンプがすり切れていて最初の3枚ほどは感光していることを覚悟の上で空シャッターを切ったものである。ASA25や50が普通でライカやコンタックスなどの標準レンズにFI.5、F2などの明るいものが開発されたのもこんな理由による。露出計は高価なため、勘で絞りとシャッターを決めて撮るので失敗も多く、現在那覇市に保管されている500枚の数十倍のシャッターをきったのではなかろうか。

 沖縄に半世紀前の写真が少ないのは経済的な理由だけでなく、フィルムの入手から現像引き伸ばしまでの繁雑な面倒な工程にあったのではなかったか。PXではすでにサービスサイズ焼付けの機械が作動していたが(拡大焼付けといった)、調整不充分でピンぼけも平気の状態だった。とはいえライカ判(135フィルム)が普及したのも、レンズ交換の可能性だけでなく、それまでの高価で手間のかかる引き伸ばしに取って代り、皆さんご承知のサービス判焼付け機械の導入と進歩が貢献しているのではなかろうか。デジタルカメラに主流となった現在から見れば、すべて過去の夢物語である。”



☆那覇市歴史博物館で写真展-2人の本土人が見た1950年代の沖縄

 https://naha.keizai.biz/headline/820/








ーーーーー引用終わりーーーーー

で、那覇市歴史博物館のホームページから検索してみた



そしたら…



あったΣ(・□・;)



伯父が写ってる画像!!Σ(・□・;)



名前も記載されてるΣ(・□・;)



で、何だか・・・・・







つづく