「大学に通えるなんて」 1期生の瑞慶覧さん、開学当時を振り返る

1950年代前半の出来事の記載はない。


 大学倶楽部・琉球大
「大学に通えるなんて」 1期生の瑞慶覧さん、開学当時を振り返る
2016年6月9日
学生時代のアルバムを見つめる瑞慶覧長方さん
開学当時の学生便覧の表紙


「本大学は日本のものでもなく、米国のものでもない」という一文で始まる便覧の序文
 沖縄戦で焼け落ちた首里城跡(那覇市)で琉球大の建設が始まったのは、1945年6月23日の沖縄戦終結から4年がたった49年6月8日だった。開学は翌年5月。戦前、沖縄には高等教育機関がなく、1期生562人の一人で、後に沖縄のサボテン研究の第一人者となった瑞慶覧長方(ずけらんちょうほう)さん(84)は「大学に通えるなんて思いもしなかった」と感慨に浸った。

 沖縄本島南部の大里村(現南城市)の農家に生まれた。父は生真面目で農業一筋だったが、読み書きができたため「社会主義の本を読んでいる」と警察にあらぬ誤解をかけられ、44年、海に身を投げて自殺した。

 翌年4月、米軍が本島に上陸し、母と姉弟と4人で壕(ごう)を転々とした。ある朝、地元の男性が米軍の指示で投降を呼びかけると、近くの岩陰から日本兵が躍り出て「スパイ野郎! 売国奴!」と日本刀で首を切った。米軍が一斉に火炎放射器を向ける中、何とか逃げ延びて捕虜になった。

 沖縄戦では住民の4人に1人が亡くなった。校舎も教科書も焼け、進路を失って自暴自棄になる生徒も多かった。「新沖縄の建設はまず人材の育成から始めなくてはならぬ」。琉球大によると、ハワイの沖縄系移民が47年に地元紙で大学設立案を発表し、沖縄でも教員や高校生らが当時沖縄を統治していた米軍政府に大学設立を求めた。「祖先が築いた政治文化の中心を大学のために使おう」と沖縄側の要望を受け、敷地が首里城跡に決まった。

 開学当初、教室には机も椅子もなく、学生らはコンクリートの床に新聞紙を敷いて授業を受けた。教科書の代わりは教授手製のプリント。瑞慶覧さんは学内の壊れた石垣修理や雑草取りで学費を免除され、百貨店の夜警や港の荷役などあらゆるアルバイトで生計を立てた。米軍払い下げのかまぼこ型兵舎を寄宿舎とし、野戦用の折り畳みベッドで眠った。

 当時の学生便覧は「本大学は日本のものでもなく、米国のものでもない。これはその創立者たちが勉学せんとする者の要望を満たし、かつ琉球諸島の人々の役に立つ学府に成長するようにと念じて創設されたものである」と記した。反米運動で学生が退学処分になるなど、米軍による厳しい統制下にあったが、それでも「学び、知る喜びには代え難かった」と瑞慶覧さんは振り返る。


 72年の本土復帰に伴い、琉球大は国立大学になった。西原町に移転した学内には今も、開学当時に時鐘として打ち鳴らしていた米軍の使用済みガスボンベがひっそりと飾られている。復帰後、地域政党・沖縄社会大衆党の県議になり、同党委員長も務めた瑞慶覧さんは現代の学生に言いたい。「平和な時代だからこそ真実を追い求める努力を忘れないでほしい」。あの苛烈な地上戦を生き残った一人として、強く願う。【川上珠実