私の伯父は、1954年に沖縄から追放されている。
不破さんは、1970年から45回も沖縄へ行ってるんだね。
私の伯父は1996年に沖縄で、43年ぶりに上原清治さん宮城倉啓さんと再会している(再会できた)。
その経緯を新崎盛暉先生は知りたがっていた。
その1996年からでも、沖縄は…。
せめて、2014年沖縄県知事選は何だったのか
沖縄での事を語るとか以前に、
本土では、奄美や沖縄の人はどういう立場だったか
現に、私の母の姉は大阪で自殺したからね。
もし、琉大を卒業していたら沖縄や奄美での就職にも困らず、大阪に出る事もなかったかもしれないと負い目を感じたのか。
6人きょうだいだったのにね
残ったのは、妹1人(私の母)となった。
私の母は末っ子。
辰巳さんへは沢山の大きな恩がある。
1930年代、第2室戸台風の被害対策に辰巳さんと共に取り組みながら、私の伯父は人生のドン底から立ち直れたというかね…
良き出会いもあり、大阪市営住宅へ引っ越しをしたのも、結婚が理由だったんですよ。
とても、素敵な方でね。
その第2室戸台風が、どれだけのものだったか…
そしたら、先日ね
第2室戸台風に匹敵する台風が大阪にきて、その中でコーポが大変な状況になっていて、私はね…
9月7日~9月10日沖縄行きをキャンセルした。
*総会や懇親会の手伝いをする予定だった。
第15回公開シンポジウム(沖縄開催)のお知らせ
東アジア共同体・沖縄(琉球)研究会ブログ
http://east-asian-community-okinawa.hatenablog.com/entry/2018/07/26/120554
私の母が、まさかね
その妹だったとはね
大阪に来てからも色んな事があったから、沖縄での事は一切話さなかったからね
自分に妹がいる事も黙っていたから。
私は、1996年朝日新聞の記事を偶然に見て、そこで初めて琉大事件というのを知った。
写真を見て驚いた。
私の弟が載ってる!と、先ず思ったから。
1954年、私の伯父は沖縄から追放され、その後、共産党は沖縄で何をしてたんですか?
何をしてるんですか?
結局は、そういう事なんですか?
第2次琉大事件に関しては、腑に落ちないところもあるというか…
処分された学生はね、就職にも影響されただろうしね
それなりの苦労もあったとは思う。
そして、その第2次琉大事件の場合は、退学処分を撤回しますよと、これもこれで、タイミングを狙ったようにね…何だかね
退学させられたとか云々以前に、その頃(第1次琉大事件)の出来事が教訓とされるどころか…
一体、どういう事ですか?
先ずは、共産党に答えて欲しいのですが、その頃(第1次琉大事件)の出来事さえも把握していないという…
話にもならない状況
私の伯父が琉大に在籍していた時は、新川明とかもいたらしいね…
その頃の琉大は、どういう感じだったか。
何に抵抗をしたのか。
琉球大学では、屋良朝笛の息子が
学科というかクラスの担任だった。
今この時でも、琉大事件をどう捉えていいのか
朝鮮戦争下で原爆展
琉大事件とは何だったのか
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