『琉大事件』に関して書かれてる本として、内村千尋さんが教えてくれたのが「沖縄人民党の歴史」の本だった。
そこには、私の伯父の名前も記されている。
ただ、今日に知られている『琉大事件』は、この本に記されている『琉大事件』ではないんだよね。
なぜ、そうなったのか。
朝鮮戦争下で原爆展、琉大事件とは何だったのか。
奄美本土復帰が殆ど知られていないのも、何故そうなったか
facebookでの
3年前の10月3日に書いてた投稿があがってきた
2015年10月3日 ·
私の母の兄の誕生日は、7月14日♪
2009年の7月14日にオジへ何気に電話したら、「沖縄に行くんや」と凄く嬉しそうな声で、その事だけで話が盛り上がってしまいました。
2009年7月26日、沖縄で開催されたシンポジウム。
そのシンポジウム参加のため、沖縄へ。
そのシンポジウムの様子やオジの証言などが修められてるのが、この本。
戦後、沖縄で何があったのか
この本は貴重な一冊となった。
ただ、この本をなかなか読めない(>_<)ヽ
それは、胸が苦しくなるからというか…
私でさえも、そういう状態になることをせめてブログに書き出しておきたいと、その一歩の意味も込めてfacebookで、まず投稿!
φ(..)メモメモ
【1953年 沖縄】
はじめての「銃剣とブルドーザー」
第一次琉大事件
http://www.geocities.jp/yanbaru_yamato/20_diary/1953.html
同年 7月27日 朝鮮戦争 休戦協定
同年12月25日 奄美 日本復帰
*人民党(瀬長)事件
☆第一次琉大事件調査へ 学長、教授ら要請に意向
沖縄 47NEWS(よんななニュース)
2008/11/12 13:55 【沖縄タイムス】
*米文書が見つかった事を報じた沖縄タイムスの記事は保管してある
☆朝鮮戦争下で原爆展
hikaku-kyoto.la.coocan.jp/press_check_9.html
沖縄と京都―先駆的だった原爆展をつなぎ合わせて考える
【1953年 沖縄】
はじめての「銃剣とブルドーザー」
第一次琉大事件
http://www.geocities.jp/yanbaru_yamato/20_diary/1953.html
01/08
那覇で第一回祖国復帰県民大会
01/10「沖縄諸島復帰期成会」発足
教職員会、市町村長協議会、青年連合会、婦人連合会、教育後援連合会で構成。のち体育協会も加わる。
会長屋良教職員会会長、副会長には長嶺秋夫小禄村長。
「復帰運動を超党派的な民族運動として推進していくためには政党を加えない方がよい」と政党排除。
01/20
アイゼンハワー大統領就任。国務長官にダレス指名。
01/XX
清水建設本部採石場スト。
01/XX
沖縄諸島祖国復帰期生会結成。会長屋良朝苗教職員会会長。
講和条約経て復帰運動の大衆組織はしばらく存在しなかった。教職員・沖青連が運動再開の声上げる。当初政党参加を拒んだものの、奄美返還で情勢厳しさまし11月には島ぐるみに。
03/30
第1回軍用地使用料が行政府に届く
米国民政府、布令「1950年7月1日から1952年4月27日にいたるまで、米国政府によって使用された、琉球人私有地の賃貸契約の締結及び借地料の支払い履行権限」を出し、講和以前の軍用地料として約106万ドルを行政主席に送りつけ、地主に分配するよう命じた。
これによって講和以前の強制収容による軍用地の違法使用は無かったことにした。
04/03
米民政府布令第109号「土地収用令」公布・施行。
新規収用の際の賃貸借契約の交渉が難航し軍用地の強制収用を決定。
土地所有者は30日以内に土地を譲渡するかどうかを回答しなければならない。30日を過ぎると米軍は収用宣言を行うことができ、土地は米軍のものとなる、というもの。
04/10
米民政府、布令109号に基づき真和志村、銘苅、安射、平野、岡野の4集落に収用通告。
米民政府布令第110号「土地収用の補償金支払手続」を公布・施行。
04/11
沖縄本島真和志村で武装兵出動、土地を強制収用。はじめての「銃剣とブルドーザー」。
04/20
立法院、真和志村の強制収容について関係者から事情聴取。
05/01
沖縄第2回メーデー。労働組合結成準備会主催。
「外国軍隊は即時撤退せよ」
「農民の生活おびやかす土地取り上げ絶対反対」
「土地収用法を即時撤廃せよ」
「植民地化教育反対、琉球大学学長・副学長の即時罷免」(琉球大学の学生が、広島・長崎原爆展を開いたことや復帰求めるリーフレットを作成したこと、灯火管制中のランプ使用などを口実に、4人が謹慎処分を受けたことへの批判)
05/05
立法院、4月3日公布の「土地収用法」の撤廃要請を決議し民政副長官に手渡す。
「アメリカ民政府の不当なる土地買い上げの措置は、世界人権宣言及び国連憲章に明記された基本的人権を擁護すべしとの趣旨にもとるもので、1、布令91号、105号、109号110号を廃止すること 2、住民の意思に反する土地取り上げの強権発動をしないこと、3、速やかに適正妥当な賠償をすることを院の決議により要請する」
05/13
謹慎処分を受けた琉球大学の学生のメーデーでの米軍・大学批判に、ミシガンミッション(陸軍省の要請で琉球大学に教授派遣)のラッセル・ホーウッドが「大学当局と米国民政府はもっと踏み込んだ措置を取るべきだ」と米国民政府や米軍諜報部隊(CIC)、琉球大学当局に報復を進言。この後4人琉球大学の学生は退学に。この一連の出来事が第一次琉大事件と言われる。
05/27
建物の立退料を最低12000円、土地代は従来の2倍に引き上げると軍から通達。
06/18
米軍C-124、東京小平市に墜落。129名全員死亡。
07/15
米民政府、伊江島の真謝、西崎両区の明渡しを通告。
半径300フィートの地上標的造成が目的で、両集落の農地含む24万7000㎡の接収。
伊江村村長、接収中止の陳情に出かけた隙に米軍土地調査に入り、地元農民に「調査官両報告書」と偽って「立退合意書」に署名させた。
07/24
立法院 労働三法再可決。米民政府黙認。
07/27
板門店で北韓・中国と国連軍間で休戦協定締結
07/30
衆議院予算委員会で吉田茂首相と芦田元首相、保安隊の自衛軍化をめぐり論争となり、吉田茂首相、”国力の充実まで自衛軍を持たず”と言明。 このあと保守政党間で自衛隊発足への合意形成急速に進む。
08/08
講和発効後の軍用地使用料で沖縄土地委員会、立法院特別委員会、地方土地委員会連合会の合同協議。
韓米条約仮調印。
08/12
ソ連、初の水爆実験。
08/18
米民政府、布令116号、「琉球人雇用者に対する労働基準および労働関係法」公布。
基地関連事業所雇用労働者には労働三法適用されず。
09/01
沖縄で労働三法公布。
10/01
沖縄で労働三法施行。
米韓相互防衛条約調印
11/10
「沖縄諸島復帰期成会」再編され、琉球民主党、沖縄社会大衆党、琉球人民党、民主団体、経済団体、新聞社など、23団体に拡大。
11/20
ニクソン副大統領訪沖、「共産主義の脅威がある限り沖縄を保有」
12/05
沖縄本島小禄村で武装兵出動、土地を強制収用
布告第26号「軍用地における不動産の使用に対する補償」を公布し、軍用地使用の契約成立を一方的に宣言。
既に収用済みの土地に対する講和後の法的根拠。既に使用しているのだから契約は交わしていないが、暗黙の契約合意があるという「黙契」で米国が1950年7月1日にさかのぼって借地権を得たと宣言。借地料を一方的に支払って、文句があるなら金額についてのみ米軍人・軍属だけで構成される琉球列島米国土地収用委員会に提訴できる、とした。
12/25
奄美群島施政権返還
☆朝鮮戦争下で原爆展
コラム「核・憲法・メディア」-24- -
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沖縄と京都―先駆的だった原爆展をつなぎ合わせて考える
2010/10/30
長谷川千秋 (元朝日新聞大阪本社編集局長、非核の政府を求める京都の会常任世話人)真期孝夫(元朝日新聞京都支局長)
<はじめに>
2010年春、琉球大学教授職員会・大学人九条の会沖縄編「琉大事件とは何だったのか」が刊行された。当会常任世話人で原爆展掘り起こしの会代表の川合葉子氏から1冊いただき、手にしたとき、まず目を見張ったのは表紙の写真だった。学生らが見入る原爆展の掲示パネルに1952年発行の「アサヒグラフ」原爆特集の写真が使われていたからである。
この本は、本土はすでに形の上で独立していたが、なお米軍の厳然たる支配下にあった沖縄で1953年、琉球大学当局から処分を受けた元学生への聞き取りなどを通して、2次に及んだ「琉大事件」の全体像の把握に迫った記録だが、読み進むうち、処分の理由の一つに、当時、学生らが取り組んだ原爆展があげられていることを知った。しかもこの本は、本土がまだ占領下の1951年、京大学生らが行った先駆的な原爆展にも言及していた。二つの原爆展をつなぐものは何だろう。
私は、元同僚で京都の原爆展掘り起こし運動のきっかけをつくった真期孝夫氏に問うた。以下、同氏から寄せられた一文を披露させていただきたい。若い世代の人たちがこれから原爆展の開催に取り組むとき、「何のために」を考える上での一つの視座を提供してくれているように思う。
(常任世話人・長谷川千秋)
沖縄を考えさせてくれた一冊
真期孝夫(元朝日新聞京都支局長)
「二つの原爆展」
琉球大学教授職員会と大学人九条の会沖縄が編集した「琉大事件とは何だったのか」を読んで、沖縄の普天間飛行場の移設問題が頭に浮かんだ。1953年(昭和28年)、当時米軍の支配下にあった沖縄で、学生の「原爆展」開催を理由に4人を退学処分にするなど 若者たちの平和への叫びを封じようとしたのが琉大事件だ。今から半世紀以上も前に、沖縄の学生たちは「沖縄戦」と「原爆」の二つの悲劇を平和の原点ととらえていたのである。その2年前の1951年夏、京都で京都大学の学生が中心になって「原爆展」を開いていた。そのニュースを取材したのは40年後の91年、私の視野に「沖縄」はなかった。普天間問題を前に、遠い島の出来事のように思っていた私には、彼らの問題意識の確かさは衝撃的だった。物事をもっと広く、深く考えろ、と改めて教えられた。
京都支局に勤務していた91年夏、連合国軍占領下で京大同学会の学生たちが広島・長崎の生々しい被爆の惨状を写真と資料で明らかにしていたことを初めて知った。51年7月14日から24日まで京都駅前の丸物百貨店(現在のヨドバシカメラ)で開かれ、延べ3万人が詰めかけた「原爆展」。被爆の実相は、それまでも被爆者が詩や小説などの形で細々と伝えてはいたが、連合国軍がプレスコードで原爆報道を厳しく取り締まったため、広く知られることはなかった。
52年4月のサンフランシスコ講和条約の発効を待ちかねていたように「アサヒグラフ」が原爆特集号を発行した。恐ろしいまでに破壊された広島・長崎の人とモノを多数の写真でとらえ、核兵器がどれほどすごい威力を持っているかを説明していた。その「初公開」で、8・6と8・9に広島と長崎で何が起こったかを多くの国民は知った。私は広島で2度勤務し、「アサヒグラフ」が原爆の破壊力のすごさを初めて本格的に伝えたと思っていた。その1年前にほぼ同じ写真や資料を使って、都心だけでなく、地方にも巡回した「原爆展」の存在に驚いた。さらにそれらの写真などが貸し出されて全国各地で展示された。地方の警察は市民の関心が原爆に集まるのに神経をとがらせ、開催を中止させるなどの妨害をした。なかには、道路交通法を持ち出して、写真を道路に並べた学生を逮捕する警察もあった。しかし、それらの妨害に屈しない学生の勇敢な闘いは延べ十数万の人を集めたという。世界平和評議会は62年、活動の中心になった京大同学会に平和賞を贈った。
原爆展には、丸木位里・俊子夫妻が「原爆の図」1,2,3部のほか、初公開の4,5部の作品も出展した。夫妻は受賞のお祝いにこんな言葉を寄せている。
「『一発の原爆、ひろしまの中心温度は六千度、太陽の表面と同じでした。遠ざかるにしたがってだんだん温度はさがりました。けれど、四キロ離れた所にいた人さえも、着物はこげ落ち、生きている皮膚は焼け』と、京大同学会の人人は、ムチを持って絵の前で説明して下さいました。
原爆という恐ろしいもの、戦争という怪物に立ち向かうのに、自分で描いた絵に説明が加えられる恥ずかしさなど、超越しなければ、いいえ、絵で足りないところは口で、口で足りないところは文章で、ありとあらゆる方法で立ち向かわねば、ということを教えて下さったのは同学会の学生さんでした。
日本国じゅう六百回、ちょうど朝鮮戦争のはじまる頃から、最も困難ななかを平和を愛する人人に助けられながら絵を背負っての行脚が始まったのでした。
それから外国へ出かけて行け、と言われ3部までは1953年に、後の7部は1956年に国外に出ました。(略)」。
原爆展は丸木夫妻の精力的な平和活動とも深くつながっていた。
「被爆の実態を明るみに」
原爆投下から6年、秘密の固いベールに包まれているはずの核兵器や被爆の実態を「原爆展」は見事というほど正確に表現していた。
例えば、当時京大生だった戸田芳實さんは「原爆展の声」という詩を次のように書いている。
「皆さん/この写真を見てください/爆心地から百五十メートル/こんな黒焦げの屍体になったのです…このひびわれた頭にさわれば/消し炭のようにガサリと崩れるでしょう/
よく御覧下さい/五千度の熱線にうたれて/瞬時に炭になったこの人を…」「サンタンたる姿は/残虐なる戦争/その無意味なギセイに/声なき抗議をしているのです」
「爆風と熱線…/その上放射線も人を殺しました/原子病にかかった人たちは/ほとんど/死ぬか、廃人になってしまうのです/二週間三週間…一か月とたつうちに/御覧のとおり/死亡の黄色、罹病の暗赤色は/広がって行きました!」。
戸田さんの言葉を選びながらの説明に、おばさんたちは声をのみ、子どもたちは目を見張った。小さなスチール写真から二十万人の運命を読み取ったのだ。
まだ原爆がつかみどころのない、得体のしれないときに、学生たちがなぜこれほど専門的な知識を持ち、それを正確に伝えられたのだろうか。しっかり学び、この悲劇を二度と繰り返してはならないという熱い思いがあったからだ。同時に、被爆直後の広島に診療・調査のため派遣された「京都大学原子爆弾災害総合調査班」の活動と、そのメンバー11人が山津波で犠牲になったことが彼らの運動を支えたといってよい。
調査班の被爆者解剖標本を調べた天野重安助教授(当時)らは講義で、被爆者の遺体から収集した資料を示し、その恐ろしさを学生に訴えた。連合国軍最高司令部(GHQ)の軍医らがやって来て、被爆調査資料の提出を強く要求したが、天野助教授はその圧力に屈せず、貴重なデータを守り、学生たちに伝えた。その講義は評判を呼び、医学部の研究者や学生で教室はいつも満員だったという。平和賞受賞のメッセージの中で、天野教授(当時)は「原爆展には、私は多くの資料を提供した。この資料提供には相当の覚悟が必要だった。占領下だから、被爆の実態は、アメリカ軍の機密だった。占領軍当局から資料の公開はお前の責任でやれ、と言ってきた。その意味は、軍の秘密に触れて問題になった場合にはお前を捕らえるぞということだ。しかし、私は医学者として学生に教えることはどうしても必要だと判断して資料を出した。それを学生諸君があのような形で一般公開したわけだ。私自身が血液学会で原爆症の報告をしたのは、原爆展の翌年(52年)の4月だった。講和条約の発効がまちがいないと見当をつけて学会のプランを組んだわけだ。それだけ慎重に取り扱わねば危険だったことがらを、学生諸君はその1年前に一般公開してくれたわけである。(略)」
これらの講義は、研究者と学生を勇気づけた。多くの若者を戦地に駆り立てて死に追いやり、国内外を焦土にした戦争。その芽をつぶすために、学生たちは立ち上がった。被爆地で原爆症と向き合っているさなか、台風による山津波で命を失った先輩たちの遺志を生かそうという気持ちも重なった。原爆展はこうして生まれた。
取材した記事をきっかけに「原爆展掘り起こしの会」が1991年に発足、川合一良・葉子さんご夫妻、小畑哲雄さんら当時原爆展にかかわった人たちが参加し、散逸した写真や展示パネルなどを集めて記録する運動が進められている。
「勇気と行動」
太平洋戦争中、日本国内で唯一、地上戦が行われ、「鉄の暴風」と言われる米軍の猛攻で多くの犠牲を出した沖縄。その沖縄を代表する大学として、琉球大は「自由平等、寛容平和」を建学の精神とし、「再び戦争の惨禍が起こることのないように」とする戦後沖縄の教育原点を深く自覚することを目標とした。
その琉球大の学生たちが53年3月、アサヒグラフの原爆特集の写真を切り抜いて戸板に貼り、那覇市内の16か所を6日間巡回し、展示した。この原爆展は「この写真はあまりにも酷い。これは大事なことやから、皆に知らせなあかんいうて、高校時代の友達が本土からアサヒグラフを二部送ってくれました。その写真の頁をベニヤ板に貼って、原爆の恐ろしさはこういうものやと、春休みに訴えて回ったのです」「写真を見たら、これからの戦争は大変な戦争になると。もう、艦砲射撃や爆弾いうもんではない。原子爆弾をロケットの先につけて、見境なく、誰の上に落ちてくるかわからない、そういう戦争になると。それでやりました」「戦争未亡人らしい、おばさんたちが涙を流しながらみてくれ、感動しました」と当時関係した人たちは証言している。
この行動を、大学側は「大学の名前を使い、許可していない平和運動をした」などとして、原爆展などに関係した4人をまず「六カ月謹慎」の処分にした。当時の学則に「謹慎処分」はなかった。この処分が学則に加えられたのは、その後のことだった。規定のない「謹慎」処分は不当だと訴えると、「謹慎」を破ったとして今度は退学処分にした。
謹慎処分を受けた翌日から琉大近くで、米軍が基地建設のため、最初の土地強制収用を始めた。学生たちはそれを見て、「見なかったことにできなかった」と行動した。やがて住民や学生が米軍の銃剣とブルドーザーに対峙する「島ぐるみ土地闘争」につながっていく。大学側は前もって「政治的な団体行動」を禁止しておきたかったから、学則にもない処分を持ち出して抑えにかかったのではないだろうか。
沖縄は50年に起こった朝鮮戦争で、最前線基地になった。沖縄の占領政策を進める米国・民政府は沖縄の人たちの動きに目を光らせ、厳しく統治した。琉大は米国の資金で戦後設立された。財源の100%を握る「琉球大学基金財団」の理事には民政府の米軍人や琉大学長らが顔を並べ、琉大は米人の寄付金で運営されていた。財団の意向を無視して大学の自治を主張するということは考えられず、民政府が琉大生の反米活動の処分を大学側に強制してもおかしくはなかった。
しかし、この本でも指摘しているように「米軍から圧力があったかなかったかではなくて、当時の大学の処分決定が妥当な措置だったのかどうかを検討すべきだ。もし妥当でないならば、なぜそのような無理な処分を大学がしたのか、それは米軍からの圧力があったに違いない、そう推論できる。だから米軍からの圧力を証明しない限り、なにも検討しないという態度は、ひっくり返えっている」。
大学側は07年、一部事件について「処分は米国・民政府から強く求められて、なされた」などとして学生への謝罪、処分取り消し、修了証書の授与をしたが、原爆展などの事件は「新しい事実が出れば検討する」との姿勢を変えない。米軍の圧力は当然考えられるが、あったからといって、大学が責任を免れるわけではない。処分が妥当だったかを民主主義や大学の自治、学問の自由の視点でとらえることが求められている。
「開催へ大学も協力」
京大の「原爆展」は学外での行動という点では琉大と同じだったが、京大当局は開催に消極的な態度をとりながらも直接介入は避けた。「滝川事件」「沢柳事件」など戦前から続く「学問の自由、大学の自治」を守る闘いの歴史の一つの表れともいえる。同学会の「開催の了承と協力の申し入れ」に、田代秀徳補導部長はいったん「本学承認」の印を押したが、鳥養利三郎学長が「認印のことは知らない。重要なことなので明日の評議会にかける」と横やりを入れた。翌日の評議会では結論が出ず、9日後「原爆についてはまだ十分な研究がされていない。後援・援助はしないが、禁止もしない。大学の実験道具を持ち出してはならない」と回答した。冷戦の本格化で日本支配・統治を強める米軍の影が見え隠れしたが、戦争に対する市民や学生の厳しい視線に米軍も大学当局も表立っては動けない空気が強かった。こうした中で、学生たちは展示資料や説明内容について、占領関連法に触れないよういろいろ工夫した。被爆者解剖標本を分析し、「原子爆弾症」の概念を確立した天野助教授の講義記録などを参考に、図表などで原爆の仕組み、恐ろしさ、人体への影響などを分かりやすく表現した。
しかし、開催場所の決定にはさまざまな圧力があった。大丸から丸物百貨店への変更。警察から丸物への「注意」。「京大同学会が原爆展で占領政策違反の宣伝・扇動をする恐れがある。そうなれば責任はすべて丸物」といった脅しだったようだ。一時は会場の使用拒否の話にまでなったが、大学側から角南正志・学生課長と木村作次郎・分校副主事が加わり、同学会に協力した。丸物の大里専務(京大出身)ら幹部と再三交渉を重ね、「宣伝ビラの後援団体名の削除」など政治色をなくす6条件を了承し、実現した。10万人ともいわれる大量の「命」が奪われた被爆直後の惨状の中で、先輩たちが調べ、持ち帰った原子爆弾のすごい威力と惨状の資料が、後輩の手で初めて公開された。
「問われるヤマトンチュ」
琉大事件の底流に流れているのは「命(ぬち)どぅ宝」(命こそ宝)ではないだろうか。太平洋戦争で、本土防衛の「盾」「捨て石」にされた。沖縄の人たちは軍と一体となって戦闘に協力し、県民の4人に1人が命を落とした。戦争が終わっても占領下に置かれ、土地は米軍に奪われ、今も基地は広がる。日本全国の基地面積の3分の2が小さな沖縄に集中する。
沖縄の原爆展は「核の危機にあった朝鮮戦争さなかの平和をめぐる闘いであり、民主主義を擁護する運動であり、自由を獲得する運動だったのである。そこには生命と生活の危険だけでなく、自身の将来すら懸けられた、何の見返りもない誠実な行動があったのである」(小屋敷琢己・教授職員会琉大事件専門委員会委員)。トルーマン米国大統領が朝鮮戦争の始まった直後、記者会見で「原爆使用もありうる」と発言し、広大な米軍基地を抱える沖縄の人たちは、核戦争に巻き込まれる危険性を身近に感じ、行動したのだ。
この本は「荷車の歌」で知られる山代巴が原爆問題の中で沖縄に触れていない点を指摘している。私と同じだ。彼女は沖縄出身の作家と一緒に被爆者の聞き取り調査をしているので、沖縄のことを恐らく知っていただろうが、広島・長崎の悲劇と沖縄の悲劇を結び付けられなかった。私も長く広島の地で仕事をしながら、沖縄と広島・長崎をつなげてとらえる歴史認識がなかった。原爆によって失われた多くの「命」に目を奪われ、「沖縄」への視点が全くなかった。
沖縄が本土に復帰して38年。平和憲法のもとで、基地の機能はアジアから中東へ広がり、昼夜を分かたぬ米軍機の騒音、米軍人による人権侵害が続いている。そんな中での普天間・辺野古の問題。自らの痛みを他人に背負わせるのは忍びないと、沖縄の多くの人はこれまで基地反対、負担軽減を叫んでも、県外移転を口にせず、県内への基地集中と過重な負担に耐えてきた。それは、小屋敷さんの最後の言葉「戦後日本にいまでも突きつけられる根本的な問題」であり、広島・長崎と沖縄との悲劇をつなぐ原点である。
私を含めた「ヤマトンチュ(本土の人)」はどう考え、どう行動するのか、まさに沖縄から「突きつけられ」ている。
以上
2015年
この頃の私は、琉大事件と向き合う事も出来てなくてね😢
ぼんやりとした状態で、とにかく、琉大の先生と会う事にした。
共産党が翁長さんに何故あんなにも心酔するのかも理解できなかったしね…
沖縄、どういう事なの?
朝鮮戦争下で原爆展、琉大事件とは何だったのか
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