2020.10.04 01:52私なりの共産党への葛藤&父との思い出私、子どもの頃は、父にくっ付いて出かける事が多かった。家には、祖母(明治生まれの奄美人)がいて、言葉も奄美語でね…何より、日本人を毛嫌い。私の父は日本人だから、険悪な同居生活。伝法高見診療所此花区四貫島小学校で、共産党の講演会。西九条や、それから…扇町プールとか赤旗まつりは、万博記念公園でやってた頃父との思い出私の父は、西六社のうちの日立造船に勤務していた。私の父は共産党50年党員。父は父で琉大事件を知り、そして何て言ったか。(後日、追記する)
2020.06.21 16:20沖縄…今、思うのは…私の伯父は、沖縄に住みたかった、ただ、それだけだったように感じるこの頃です🍀奄美から移民先の大阪で生まれ育つが、昭和18年に一家ごと奄美へ戻らなければならない事になり、奄美では高校は大島高校入学、大島高校の寮生活、加計呂麻島で過ごした期間も少ないはずで…周りの大反対を押し切り、沖縄へ渡るのだが色んな事に巻き込まれていく事になるのだが…ちなみに、私の母は昭和12年生まれ。6人きょうだいの末っ子。6人のうち、3人は幼少期に病気で他界。もう1人は、昭和34年に奄美から大阪へ共に移住したが、直ぐに他界。自殺だったとか。それだけに、私の母を守る事に必死になってたというか
2020.06.21 06:482017年10月玄関先で私を見送る、新崎盛暉先生の姿脳裏に焼き付いている。また、会う約束をしたし、小憎らしいぐらい元気だったので、あの時が最後になると思わなかった。写真を撮っておけば良かったなぁ2017年10月
2020.05.30 18:41落胆…私が新崎先生と会ったのは、2017年10月。色々と話をした後、新崎先生は私に今度どうするつもりか聞いてきた。新崎先生と会う約束をしていた日の前日に、私は創価学会沖縄研修道場を訪ねておいた。「沖縄と核」が放送されたのが2017年9月。共産党の反応に落胆していた私
2019.09.21 03:59この春から父との生活この春から、尼崎で父との生活をスタート。で、最近になって初めて知る事が沢山☘️私の父は、後援会会長もしてたんですか?後援会とは辰巳さんのね。知らなかった私🙄あと、西六社の何だっけ?住金とか、知り合いは多いとは思っていたけど🙄私の父へは、ブルデモの写真は見せてない。あんなの、見せれるか?ブルデモを東中光雄さんが喜ぶはずもなく、そして未だに翁長さんを賛美する者達よ、私は許す事がやはり無いかもね💢今、あらためて思う💢*写真、私の父と東中光雄さん ☆大阪では… https://himawari0007.amebaownd.com/posts/5126804 #amebaownd
2018.12.02 16:46Twitterやfacebookでの呟き2016年11月30日 · 去年の今頃、私の手元にあったのは一枚の新聞記事と一冊の本だけだった。この一冊を読むのも大変だった、現実として受け入れる事に。そして、何も知らずにいた事に詫びた。だけど、それはジグソーパズルで例えるとほんの1ピースにしかすぎなかった。それが沖縄。