2020.06.13 21:15「沖縄からの報告」1951年3月大島高校を卒業。仕事を求めて沖縄へ渡る。現に、米軍基地での雇用カードが、沖縄県公文書館に保管されているのも見つけた。私の祖母は、沖縄へ行くのは大反対だった。沖縄では、奄美人は どういう扱いを受けるか。実際に、人種による賃金差別があった。そんな中、大島高校時代の同級生と再会。その人は琉大に入り、寮生活を送っていた。寮生活の様子なども知り、私の伯父は1952年に琉大へ入学。学力はあったしね*表には記載されていないが、沖縄人より更に下にされていた奄美人沖縄で何があったのか周りは、お兄ちゃんの心配ばかり…何があったのか、教えてもくれない。私の母は、ひとり秋徳(奄美)の海岸へ行く事が多かったそうだ。1953年、何があったか…
2017.11.23 08:55『沖縄からの報告』1959年 瀬長亀次郎朝鮮戦争がはじまる一年ほど前から、沖縄の原水爆基地建設工事がめまぐるしいほどの忙しさで進められ、沖縄の土建請負業者や労働者だけでは間に合わないということで、軍同局が工事を国際入札に付した。それに応じて本土から清水建設をはじめ松村組、三光建設、島藤建設など二十を数える大小の請負業者が、日本のどのような労働組合にも加入していない労働者のみをえりすぐって、大挙乗り込んできた事情によるものである。(156Pより)
2017.03.14 08:23沖縄からの報告 (1959年)1951年、奄美から沖縄へ。最初は、米軍基地で働いていた。どのような労働条件だったか…1953年のメーデーでは米軍戦車も出動、弾圧メーデー何があったの?私、寝込みそう😢⤵☆沖縄からの報告 (1959年) (岩波新書)瀬長亀次郎