私の伯父は、1951年3月末に沖縄へ渡っています。
母子家庭だったため、朝鮮戦争下の原水爆基地建設ラッシュの沖縄へ仕事を求めて、大島高校卒業後すぐに沖縄へ渡りました。
米軍基地では、人種による賃金差別がありました。
フィリピンからの出稼ぎ者もいたようです。
沖縄人が一番下です。
奄美人は更に酷い扱いを受けました。
稼げる状態ではなかったそうです。
それならばと、伯父は大島高校卒業という学力はあったので、琉球大学へ入り教員になる道を目指す事にしました。
琉球大学へ入ったのは、1952年4月です。
寮の掃除をすれば、学費も無料だったとか優遇は良かったようです。
しかし、琉球大学では どのような教育がコンセプトにされていたか…
奄美がもし、もう少し早く復帰していれば、私の伯父は沖縄へ渡る事も出来なかったでしょうね。
かといって…
朝鮮戦争勃発一年前から、沖縄に原水爆基地を造る計画はあったとされます。
その朝鮮戦争は、休戦中であって終わってないですよね…
本土復帰(ほんどふっき)とは、第二次世界大戦における日本の敗戦(日本の降伏)により、連合国軍(主に米軍)に施政権が移った、伊豆諸島、トカラ列島、奄美群島、小笠原諸島、沖縄県が日本に復帰したことを言う
本条約はアメリカ合衆国のサンフランシスコ市において署名されたことから、サンフランシスコ条約、サンフランシスコ平和条約、サンフランシスコ講和条約などともいう。
1951年(昭和26年)9月8日に全権委員によって署名され、同日、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約も署名された。
翌年の1952年(昭和27年)4月28日に発効するとともに「昭和27年条約第5号」として公布された。
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