奄美における祖国復帰運動

奄美共産党(あまみきょうさんとう)とは、アメリカの施政権下におかれた鹿児島県奄美群島で結成された政党である。
設立1947年4月10日。 
琉球列島米国軍政府(後に琉球列島米国民政府)によって非合法とされたが、1950年に合法政党としての奄美社会民主党(現在の社会民主党(当時は日本社会党)とは無関係)を結成し、奄美における祖国復帰運動を事実上主導した。


目次 

1 結成

2 活動と弾圧

3 合法政党「奄美社会民主党」結成

4 復帰運動と沖縄人民党との合同

5 参考文献

6 関連項目


結成

1945年10月、中村安太郎、島本忠雄らが奄美の党組織確立を目指し準備を始める。この時は党中央との連絡がつかず,結成に至らなかった


1946年12月、党中央から奄美大島における党組織確立の任務を帯びて久留義蔵が帰島。久留は共産主義者の満州グループのメンバーだった


1947年2月、久留、中村ら奄美の活動家が集まり党の結成を協議。日本共産党の綱領規約に準じて綱領規約をつくり、日本共産党の指導を受けることを決定。

1.奄美人民共和国の樹立 2.共和国憲法の制定 3.農地改革の実施 4.集会・結社・信仰の自由 5.労働組合法の制定 の5つの柱からなる 


4月10日、奄美共産党が正式に創立される。「奄美人民政府樹立」を掲げ、青年団,婦人生活ヨウゴ会,官公庁職員組合などを影響下に置いた。


12月に開催された日本共産党第六回党大会では、奄美における党は独自の党とし、日本共産党は奄美の党に対して援助する方向がとられた。在本土沖縄・奄美大島出身党員グループは,「沖縄、奄美、小笠原の日本返還」を党の方針とすることを提案するが否決される。



活動と弾圧

1950年1月、奄美共産党の機関誌「ジンミンセンセン」が食糧問題特集号を発行。奄美共産党は青年団・連教組・婦人生活擁護会など14団体が参加する「食糧問題対策協議会」を実質指導し、軍政官に価格の引き下げを要望する。 1月24日には軍政官バーロー大佐が食糧価格改正に関する指令を発表。放出食糧の値下げ、米3割 大豆5割値下げを実施する。

同年2月、吉田首相が国会で「奄美は日本に帰属すべきであり、この問題に対して意思表示の自由がある」と答弁。これを機に3月24日、名瀬市連合青年団が臨時集会を開催。宮崎市の大島町青年団の呼びかけに応じ初めて復帰運動を大衆の前に提起。実質的には日本復帰をめざす総決起大会となる。

3月27日、占領軍が「ジンミンセンセン」誌の食糧問題特集号の記事を取り上げ「奄美共産党事件」のでっち上げ弾圧を開始。米軍および警察が小宿部落に乗り込み、徳田豊巳ほか数名の家宅を捜索し、同党の機関誌「人民戦線」を押収。奄美共産党書記長の橋口護と党幹部の徳田豊巳は3カ月ほど山に潜んだ後、ひそかに密航。本土で復帰運動を続けた。3月28日、各社会団体内の指導的地位にある共産党員17名が、軍政府転覆の「暴動を計画した」との嫌疑で逮捕投獄される。このあと一時、復帰運動は停滞を強いられる。5月22日の「ジンミンセンセン事件」の判決では、大山連青団長は6ヶ月の重労働・罰金5千円。それ以外の崎田実芳ら青年団幹部は証拠不十分で釈放された。



合法政党「奄美社会民主党」結成

1950年7月、奄美群島政府が発足。

奄美共産党はこれを機に大衆合法政党「社会民主党」の結成を方針化し、教育者で詩人かつ「自由社」で穏健な出版活動をしていた泉芳朗に接近。


8月11日、自由社と名瀬連合青年団の講演会。

事実上、社会民主党の旗揚げ集会となる。

社会民主党は市連青と自由社を基盤とし、協和党と並ぶ2大政党のひとつとなる。


8月17日、正式に社会民主党が発足。労働組合、農民組合、小作人組合、借地借家人組合、青年団、婦人生活擁護会などを組織する。


8月23日に結党大会を開催し、「奄美人民政府樹立」の方針を放棄して、「奄美の日本復帰を党是として確立」する。初代委員長には元警察署長だった豊蔵朝秀が就任。書記長に自由社の泉芳朗。

秋には、四地区(奄美,沖縄,宮古,八重山)群島政府の設立に伴い、知事ならびに群議の公選が実施され、社会民主党は群議一,市議四名を勝ち取る。知事選でも日本復帰を公約に掲げた中江前知事が、笠井前副知事を破り勝利。 


12月10日、社会民主党が第2回党大会を開催。委員長に泉芳朗、書記長に佐野喜島(元全官公庁職員組合委員長)らを選出する。




復帰運動と沖縄人民党との合同


1951年2月13日、社会民主党の呼びかけで「帰属問題対策協議会」を開催。32団体70余人が参集する。請願運動を柱とし、「信託統治反対」「条約三条撤廃、即時完全復帰」の署名を開始する。実践組織として復帰協議会の結成が提案される。


2月14日、帰属問題対策協議会の議論を経て「日本復帰協議会」が結成される。議長に泉芳郎が就任。趣意書の発表と署名運動の展開を決定。(泉の説得にあたったのは共産党の中村安太郎だった。中村は「今の奄美にレーニンや毛沢東はいらない。民族解放のためにはガンジーが必要だ」と口説いたという)


5月29日、名瀬市議会の補欠選挙が施行される。社民党が協和党関係者を抑えて3名が当選。


7月13日、復帰協は第1回市民総決起大会を開催。名瀬小学校校庭に約2万人を集める。集会は「信託統治反対」「日本復帰貫徹」を決議。軍政府は名瀬市民総決起大会の中止を命令。バーロー民政官が乗り込み解散を要求。プラカードの撤去と小学生を退場させることで双方が折りあう。


7月19日、同じく名瀬小学校校庭で第1回日本復帰郡民総決起大会が開かれ、1万数千人が参加する。奄連青が提出した動議、①首相へ抗議文を提出、②信託統治に絶対反対、③復帰陳情団の派遣、④ハンストの実施などを決議した。


7月31日、民政府は「復帰運動は政治運動ではない」と認める指令を発する。


8月1日、復帰協の泉芳朗議長が名瀬市の高千穂神社で120時間の断食に入る。これに呼応して三方・古仁屋・住用・西方・宇検・早町など各町村が相次いで断食を決行。学童も断食に参加する。


8月4日、断食闘争1万人集会を決行。参加者は集会後「日本復帰の歌」を歌いながら泉に合流して高千穂の森でかがり火をたいて「民族分離反対」を祈願し断食に入る。午後10時から5日夕刻にかけて、映画館・料理屋・飲食店・商店などが一斉休業。


8月6日、日本復帰陳情員を全市町村から募り、密航陳情団が。極秘裏に編成される。市町村代表11人が高千穂神社境内で団を編成。2、3人ずつの班行動をとり、東京の指定場所で落ち合うこととした。


8月16日、陳情団のひとりとして参加した松江謙志が、神奈川県委員会を通して党本部に連絡。「奄美共産党の組織を正式に日本共産党琉球地方委員会の奄美地区委員会とする」よう求める。方針は承認されたが、当時「50年問題」の分裂と混乱状態にあった党中央にはまだ正式機関としての指導連絡の責任者と機構はなく、奄美出身の党員を通じての連絡が続けられる。(このあとは「奄美共産党」ではなく「日本共産党奄美地区委員会」の名称を用いる)


9月9日、サンフランシスコ講和条約が締結される。沖縄・奄美・小笠原諸島は「本土」の独立と引き換えに米軍の恒久支配地域に入る。郡民は戸毎に弔旗を掲揚し抗議する。復帰協・連青は掲げてきた復帰運動①信託統治反対、②講和条約3条撤廃・全面講和、③完全日本復帰、のうち②については条約締結により、事実上きわめて実現困難となった。


9月13日に開催された復帰協の臨時代議員会では、条約調印後の運動の進め方について討議。三原則路線に対して異議が出るも運動継続では一致。連教組は「信託統治絶対反対」のスローガンを降ろすことを要求。


9月22日に復帰協、全郡町村支部長会議が開かれる。社会民主党・青年団は「条約3条撤廃による完全日本復帰」を堅持。連合教職員組合の現実論と対立するが押し切る。しかし、泉議長と盛副議長からは辞任の申し出あった。


9月、奄美共産党は講和条約締結に伴い、奄美社会民主党を発展的に解消。沖縄人民党と合同する方針を決定。同時に沖縄にも共産党を建設する方向を確認。


10月13日、社民党第3回大会が開かれる。「復帰運動三原則」の維持を再確認。委員長に佐野喜島、書記長に大山光二を選出。泉芳朗は復帰協議会に専念するため辞任。

奄美地方の日本復帰後、奄美共産党は日本共産党奄美地区委員会となる。



参考文献

大原社会問題研究所雑誌509号「沖縄・奄美非合法共産党文書」、2001年4月。

『奄美社会運動史』JCA出版/発行 松田清/著

参照:奄美共産党と復帰運動年表



関連項目

沖縄人民党

日本共産党

琉球独立運動

本日の赤旗「潮流」に奄美の復帰60週年を記念する記事が掲載されている。

奄美共産党と復帰運動年表2014年1月 Upload本日の赤旗「潮流」に奄美の復帰60週年を記念する記事が掲載されている。そこでは日本共産党員として復帰運動に携わった崎田実芳さんの談話が載せられている。もう少し詳しく知りたいと思い、「崎田実芳」で検索をかけてみたところ、下記の文献が出てきた。大原社会問題研究所雑誌 No.509号(2001.4)の 新たに発見された 「沖縄・奄美非合法共産党文書」についてという文章である。著者は加藤哲郎さん。なにやら懐かしい名前である。最後の加藤さん自身のコメントには次のように書かれている。この種の文書では,本稿における54年・56年・58年「党史」の比較からも明らかなように,「党史」そのものが時々の政治情勢にあわせて書かれた,政治性を帯びている。史実の確定のためには,これら史資料自体が,批判的に吟味されなければならない。ということで、なかなか資料の扱いが難しいが、とりあえず例によって年表形式で紹介する。(主観の混じるややこしいところは省略する)これだけでは当時の状況がなかなかつかめないので、他の資料からの引用を付け加えてある。その後、奄美復帰運動史年表というきわめて浩瀚な資料を発見しました。その一部も取り入れています。作成者は森紘道さんという方です。これを見るためにはグーグル検索で“奄美復帰運動史年表”で検索をかけ  1945年奄美諸島、「解放」地域に指定される9月2日 日本ポツダム宣言を受諾し降伏文書に調印。沖縄・奄美・小笠原諸島は,台湾・朝鮮・樺太・千島などと同様の「解放」地域に含まれ,日本列島と切り離される。10月 中村安太郎ら、「奄美文化協会」を再建し活動開始。この会は中村らが戦時中に組織し、島内各地を回って活動していたもの。中村は治安維持法で逮捕された経験を持つ戦前からの活動家。復帰までの奄美共産党の指導的幹部。10月 中村安太郎,島本忠雄らが奄美の党組織確立を目指し準備を始める。この時は党中央との連絡がつかず,結成に至らなかった。10.30 米海軍のジャクソン少佐一行が来駐。6日間にわたって名瀬を調査する。 1946年ミニ国家「北部南西諸島政府」の「成立」1月1日 「船着場から眺める名瀬の街は周囲の山裾まで見渡せる焼け野原、そこここにはやはり門松が立ち、日の丸の国旗が鮮やかだ」(「奄美の烽火」より)2月2日 アメリカ占領

www10.plala.or.jp



奄美共産党と復帰運動年表
2014年1月 Upload


本日の赤旗「潮流」に奄美の復帰60週年を記念する記事が掲載されている。

そこでは日本共産党員として復帰運動に携わった崎田実芳さんの談話が載せられている。

もう少し詳しく知りたいと思い、「崎田実芳」で検索をかけてみたところ、下記の文献が出てきた。

大原社会問題研究所雑誌 No.509号(2001.4)の 

新たに発見された 「沖縄・奄美非合法共産党文書」について

という文章である。著者は加藤哲郎さん。なにやら懐かしい名前である。

最後の加藤さん自身のコメントには次のように書かれている。

この種の文書では,本稿における54年・56年・58年「党史」の比較からも明らかなように,「党史」そのものが時々の政治情勢にあわせて書かれた,政治性を帯びている。史実の確定のためには,これら史資料自体が,批判的に吟味されなければならない。

ということで、なかなか資料の扱いが難しいが、とりあえず例によって年表形式で紹介する。(主観の混じるややこしいところは省略する)

これだけでは当時の状況がなかなかつかめないので、他の資料からの引用を付け加えてある。

その後、奄美復帰運動史年表というきわめて浩瀚な資料を発見しました。その一部も取り入れています。作成者は森紘道さんという方です。

これを見るためにはグーグル検索で“奄美復帰運動史年表”で検索をかけ

奄美復帰運動史年表

www.geocities.jp/amamihukkiundo_a/index.htm.pdf‎の横の逆三角を左クリックすると「キャッシュ」という吹き出しが出てきます。これを呼び出すと、HTML ファイルを閲覧できます。ただしこれは上巻で、下巻はまったく違う名前で登録されています。それも見つけて利用させていただきましたが、今はどうやって見つけたか忘れてしまいました。各人努力してください



1945年

奄美諸島、「解放」地域に指定される

9月2日 日本ポツダム宣言を受諾し降伏文書に調印。沖縄・奄美・小笠原諸島は,台湾・朝鮮・樺太・千島などと同様の「解放」地域に含まれ,日本列島と切り離される。


10月 中村安太郎ら、「奄美文化協会」を再建し活動開始。この会は中村らが戦時中に組織し、島内各地を回って活動していたもの。中村は治安維持法で逮捕された経験を持つ戦前からの活動家。復帰までの奄美共産党の指導的幹部。


10月 中村安太郎,島本忠雄らが奄美の党組織確立を目指し準備を始める。この時は党中央との連絡がつかず,結成に至らなかった。


10.30 米海軍のジャクソン少佐一行が来駐。6日間にわたって名瀬を調査する。


1946年

ミニ国家「北部南西諸島政府」の「成立」

1月1日 「船着場から眺める名瀬の街は周囲の山裾まで見渡せる焼け野原、そこここにはやはり門松が立ち、日の丸の国旗が鮮やかだ」(「奄美の烽火」より)


2月2日 アメリカ占領軍は,奄美大島,沖縄,小笠原諸島を日本の行政下から分離し,直接軍政下におく。

本土・奄美間の海上を封鎖。米国民政府の命令により本土出身者が公職から追放され、本土に強制送還となった。「本土への渡航者は永住者に限る」と通達。本土の奄美・沖縄出身者は非日本人となる。

本土から切り離されたことにより、奄美の島内産業は壊滅。人口20万人のうち3万人が仕事を求めて沖縄本島へ移っていった。 


2.10 名瀬町連合青年団結成。6月に奄美連合青年団へ発展。


2.24 日本共産党が「沖縄民族の独立を祝う」とのメッセージを出す。


3月 旧鹿児島県大島支庁内に米軍政府が開設される。ロス・H・セントクレアが軍政府長官に就任。


10月3日 臨時北部南西諸島政庁が成立。役職者には地元出身者が就任する。

知事に大島支庁長の豊島至、副知事に中江実孝。アメリカ軍は当初、奄美群島を北部琉球と呼んだが、奄美側の強力な反対にあい琉球を外し北部南西諸島とした。 


10月6日 警察部長兼大島警察署長の豊蔵朝秀が罷免される。理由は警察民主化に期待が持てないというもの。豊倉は後に社会民主党の初代委員長に就任する。


12月 党中央から奄美大島における党組織確立の任務を帯びて,久留義蔵が帰島。(久留は共産主義者の満州グループのメンバーだった)

奄美では党の綱領規約に準じて独自の活動が活発にできる独自の組織をつくる。軍政下では非合法組織にならざるを得ないので党の合法的な行動党を作る、などの指示を持ち込む。(この指導は党機関の決定によるものではなかったという)


12月 奄美文芸家協会が発足。雑誌「自由」を発行。泉芳朗が編集長となる。

雑誌「自由」は奄美で発行された文芸理論誌。元教師・詩人の泉芳朗が主催し、ロシア文学者の昇曙夢(在東京)らが寄稿。



1947年

奄美共産党の結成


1月 二代目軍政官ラブリー少佐、年頭の談話を発表。「デモクラシーは大小幾多の革命の所産」と述べる。軍政府は群島レベルの諮問機関として北部南西諸島法制改定委員会(後に奄美民政議会に改称)を設置する。副会長に中村安太郎が就任。


1月 伊仙(徳之島)で小作人組合が結成される。土地の強制取り上げ絶対反対、小作料の公定化 小作料の金納制をもとめる。


2月 久留、中村ら奄美の活動家が集まり党の結成を協議。日本共産党の綱領規約に準じて綱領規約をつくり、日本共産党の指導を受けることを決定。

1.奄美人民共和国の樹立 2.共和国憲法の制定 3.農地改革の実施 4.集会・結社・信仰の自由 5.労働組合法の制定 の5つの柱からなる


3月 雑誌『自由』に、久留義蔵の論文「大島民主化の為に」が発表される。


3月 奄美連合大阪本部が結成される。奄美の分離を拒否し復帰の早期実現をもとめる決議を採択。当時全国には20万人の奄美人が散在していた。


4月10日 奄美共産党が創立される。創設メンバーは久留(30)、中村(38)、島本(40)、栄枝(38)の4名。(公式党史『奄美の烽火』は,綱領を定めた4月10日を創立日としている)

奄美共産党は,久留を連絡者として中央に派遣。党中央に「沖縄,奄美に対する党の方針決定」を要望した。その中心的内容は,奄美大島の日本復帰に対する党の基本態度を明かにすることであり,日本共産党と奄美共産党との組織的な関係についてであった。

5.01 米軍政府、「メーデーは共産主義の行事」とし禁止通達を出す。

 

6月 久留義三は東京にもどり、「奄美青年同盟」を結成する。

軍政府、反共・反復帰の姿勢を明確に


7月 中村安太郎、「共産主義教育をすすめた」として大島中学専攻科の講師職を解任される。


8月 郡内21市町村長会が日本復帰の嘆願を決議。ラブリー軍政長官に口頭で申し入れる。

8月 ラブリー軍政長官、「占領軍は南西諸島を一つのグループにまとめ信託統治を行う。日本復帰はありえない。北部南西諸島が日本に帰るという意見はまったく迷惑である」と言明。


9.19 昭和天皇のメッセージが、GHQに伝えられる。「米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を続けるよう」希望するもの。


9月 全官公庁職員組合が結成される。組合員3千人を擁する島内最大の組織となる。


10月16日 市町村長会や学校長会議が「日本復帰嘆願決議」を採択。軍政府は集会・言論・出版の自由を規制し、弾圧に乗り出す。


10月 奄美共産党は、合法大衆政党として奄美人民党の結成を準備したがアメリカ占領軍によって拒否された。この時奄美地方の人口は20万あまり。


12月 日本共産党第六回党大会。奄美における党は独自の党とし,日本共産党は,奄美の党に対して援助する方向がとられた。在本土沖縄・奄美大島出身党員グループは,「沖縄,奄美,小笠原の日本返還」を党の方針とすることを提案するが否決。


47年 奄美共産党、日本共産党と別個の党として活動を開始。土建労働組合,木材労働組合,農民組合などの結成と指導にあたる。さらに「奄美人民政府樹立」を掲げ、青年団,婦人生活ヨウゴ会,官公庁職員組合などを影響下に置く。


47年 沖縄人民党が結成される。当初は非合法共産党組織への拒否反応をしめしたとされる。



1948年


2月 非合法下に奄美青年共産主義青年同盟が結成される。東京から久留義蔵夫人の弟小西文雄がオルグとして派遣され、指導に当たる。


4月 日本共産党第6回大会が行動綱領を決定。第27項で「朝鮮および南方諸国の完全な独立」をうたう。

青年運動の興隆と弾圧強化


5月18日 崎田実芳らにより新四谷青年団が結成される。新青年団活動の牽引車となる。(「新」は沈滞した従来の青年団活動に代わる新たな性格の青年団という意味で、「新四谷」という地名ではない。四谷は名瀬の南郊の町で、病院や学校の集中する住宅街)


5.22 共産青年同盟の大衆化の方針に基づき奄美青年同盟への改組が進められる。結成準備委員会の主催で「青年弁論大会」が開かれる。 


6月19日 教科書密航団が出発。新教育関係図書購入のため金十丸で本土へ向かう。


7月11日 奄美青年共産主義青年同盟を発展的に解消し、合法的な政治結社「奄美青年同盟」を結成。奄美共産党の青年党員を中心とし、大島中学の社研メンバーが参加。委員長に森田義治。


8月15日 奄美青年同盟の結成記念講演会が開かれる。聴衆1000余名。軍政府は講演会途中で解散を命令。


「独立」から「復帰」路線への転換


8月26日 日本共産党の中央委員会総会、これまでの「独立」路線を変更。沖縄・奄美大島の日本復帰を決議。これを受けて奄美共産党も本土復帰を打ち出す。


8月 「赤旗事件」が発生。中村安太郎らは占領政策に反する発言を行ったとして逮捕・投獄される。


9月 奄美官公庁職員組合が結成される。復帰運動の主要な柱の一つとなる。


10月末 奄美青年同盟の認可申請が却下される。奄美共産党は青年同盟の建設を断念し、既存の合法組織である「奄美大島連合青年団」の再健強化の方針を採択する。


11.28 中村安太郎に対し重労働1年、『奄美タイムス』主筆および北部南西諸島法制改訂委員会副委員長を解任する判決がくだされる。



1949年

49年 大量の復員者を受けて島内の生活苦が深刻となる。摂取量1800カロリーとして1年で9万トンの食料が必要なのに対し、1万トン以上が不足している状況。


49年 軍政府、窮乏した奄美の失業者を沖縄の基地建設に投入するため、沖縄への渡航許可制を廃止。


1.31 軍政府、食糧補給50%を35%に引き下げ、同時に値上げ実施。米価は約6倍となる。児童4874名中、病欠者が161名、欠食者が693名に上る。


1月 奄美共産党、「日本復帰を民族運動として取り上げる」と決定。「奄美人民政府樹立」の綱領では民族問題は解決できないとされる。


3月14日 奄美大島連合教育会が連合教職員組合(連教組)に改組される。以後、復帰運動内の右翼的潮流の代表として分裂策動を繰り返す。

「三倍値上げ」政策と生活擁護協議会


5月1日 アメリカ軍政府、低物価政策を廃止し、食糧,衣料,燃料,農器具,肥料等の「放出物資」価格を三倍に値上げすると発表。副知事笠井純一は軍政府に撤廃を申し入れ。奄美共産党は全郡的な大闘争の組織化に乗り出す。


5月3日 市町村長と経済復興委員会の合同会議が開かれる。「生か死か」「食糧値下げ一本槍で進め」「すべての妥協案に絶対反対」などの意見が飛び交う。15名の官民合同陳情団を沖縄に派遣することを決定。議会も当局も「陳情委員会」に参加し、官民一体のたたかいとなる。


5月25日 名瀬市連合青年団が結成される。①青年の社会的質的地位の向上 ②平和奄美の建設 などを綱領に掲げる。団長に大山三津司,副団長に崎田実芳。


7月6日 奄美共産党の呼びかけで全大島生活擁護協議会が結成される。①食料価格の引き下げ、②1日2400Cal の配給基準確保、③非常用食糧の確保を目標とする。


7月8日 生活擁護会の呼びかけで郡民大会が開催される。夜7時半から名瀬小学校校庭で行われた集会には約1万名が参加し、軍政府を震撼させる。


7月9日 中江知事と政庁の各部長とが辞職を表明。軍政府により却下される。経済復興委員会は総辞職を宣言。


8月5日 アメリカ軍政府、「メンバーの中に共産党員がいる」との理由で「奄美大島生活擁護協議会」に解散命令。三倍値上げは「一時延期」となる。


8月 解散した生活擁護会に代えて、婦人生活擁護会を結成。中村安太郎の妻光枝や松岡百代・松江朝子らが中心となる。


8月 宮崎県在住の奄美出身者が大島町青年団を結成。祖国復帰の呼びかけを発する。


9月5日 市官公庁職員組合・婦人生活擁護会・市連青の共催による市民大会。食糧3倍値上げの反対運動がさらに盛り上がる。


11月7日 市連青、市政汚職を告発。問題真相報告大会を開く。1000余名が参加。


11月7日 市青幹部が検察庁を訪問。市長に対しざらめ糖やHBT不正事件に関して質問を浴びせる。青年団と政治ボスとの対立が激化する。


12月7日 軍政府、青年団を反米的政治団体と非難。主席名で改組と役員の更迭を指令。10日後に抗議を受け撤回。



1950年


1月 奄美共産党の機関誌「ジンミンセンセン」、食糧問題特集号を発行。

 

1.12 全官公労組の呼びかけで、青年団・連教組・婦人生活擁護会など14団体が参加する「食糧問題対策協議会」が結成される。軍政官に価格の引き下げを要望する。


1.24 軍政官バーロー大佐、食糧価格改正に関する指令を発表。放出食糧の値下げ、米3割 大豆5割値下げを実施する。

復帰闘争の表面化と共産党大弾圧


50年2月 吉田首相、奄美は日本に帰属すべきであり、この問題に対して意思表示の自由があると答弁。


3月24日 名瀬市連合青年団が臨時集会を開催。宮崎市の大島町青年団の呼びかけに応じ初めて復帰運動を大衆の前に提起。実質的には日本復帰をめざす総決起大会となる。


3月27日 占領軍、「ジンミンセンセン」誌の食糧問題特集号の記事を取り上げ「奄美共産党事件」のでっち上げ。米軍および警察が小宿部落に乗り込み、徳田豊巳ほか数名の家宅を捜索し、同党の機関誌「人民戦線」を押収。


3月27日 奄美共産党書記長の橋口護と党幹部の徳田豊巳は、3カ月ほど山に潜んだ後、ひそかに密航。本土で復帰運動を続けた。


3月28日 各社会団体内の指導的地位にある共産党員17名が、軍政府転覆の「暴動を計画した」との嫌疑で逮捕投獄される。このあと一時、人心は復帰運動を表面化することを避けるようになる。(こんな小さな島で指導部が17人も逮捕されたら終わりでしょうね)


5.22 ジンミンセンセン事件の判決。大山連青団長は6ヶ月の重労働・罰金5千円。それ以外の崎田実芳ら青年団幹部は証拠不十分で釈放。(これでいっそ吹っ切れたかもしれません)



社会民主党結成と復帰闘争への一本化


50年7月 奄美群島政府の発足。奄美共産党はこれを機に大衆合法政党「社会民主党」の結成を狙い、自由社に接近。


8月11日 自由社と名瀬連合青年団の講演会。事実上、社会民主党の旗揚げ集会となる。社会民主党は市連青と自由社を基盤とし、協和党と並ぶ2大政党のひとつとなる。


8月17日 社会民主党が発足。奄美共産党は労働組合,農民組合,小作人組合,借地借家人組合,青年団,婦人生活擁護会などを組織する。


8月23日 奄美大島社会民主党結党大会「奄美の日本復帰を党是として確立」する。初代委員長には元警察署長だった豊蔵朝秀が就任。書記長に自由社の泉芳朗。


9月30日 大山連青団長が刑期を終え出獄。


50年秋 四地区(奄美,沖縄,宮古,八重山)群島政府の設立に伴い、知事ならびに群議の公選が実施される。社会民主党は群議一,市議四名を勝ち取る。知事選でも日本復帰を公約に掲げた中江前知事が、笠井前副知事を破り勝利。


11月25日 臨時北部南西諸島政庁が奄美群島政府に改称。本土企業の支店や営業所は接収されて公営企業となり、大島中央銀行も誕生する。


12月10日 社会民主党が第3回党大会を開催。委員長に泉芳朗、書記長に佐野喜島(元全官公庁職員組合委員長)らを選出する。


50年12月 社会民主党、奄美の祖国復帰をもとめ東京に陳情団を派遣する計画を立てる。泉ら各団体代表30人の渡航許可を申請したが、那覇の米民政府により却下される。



1951年


日本復帰協議会と島ぐるみ運動


2月13日 社会民主党の呼びかけで「帰属問題対策協議会」を開催する。32団体70余人が参集する。請願運動を柱とし、「信託統治反対」「条約三条撤廃、即時完全復帰」の署名を開始する。実践組織として復帰協議会の結成が提案される。


2月14日 帰属問題対策協議会の議論を経て「日本復帰協議会」が結成される。議長に泉芳郎が就任。趣意書の発表と署名運動の展開を決定。

泉の説得にあたったのは共産党の中村だった。中村は「今の奄美にレーニンや毛沢東はいらない。民族解放のためにはガンジーが必要だ」と口説いたという。


2.17 奄美連合青年団が拡大団長会議を開催。復帰協議会に結集し復帰運動を推進するとの決議を採択する。 


2.19 全郡の市町村職員組合連合の結成大会が開かれ、復帰運動推進を決定。


2月19日 復帰署名の運動が開始される。署名は最終的に14歳以上の住民の99.8%(13万9千人)に達する。集落単位または自治体単位でハンガーストライキを行い、小中学生も血判状を提出する。


3.26 群島議会、復帰決議案を満場一致で採択 すべての市町村で署名運動が進む。 


4月 中江実孝奄美群島政府知事が渡米。ハワイ・カリフォルニア・オハイオ・ワシントンなど各地で復帰を訴える。


4月 復帰運動に手を焼いた米軍、新たに琉球臨時中央政府を設立し、群島政府は廃止する方針を決定。


5月29日 名瀬市議会の補欠選挙が施行される。社民党が協和党関係者を抑えて3名が当選。


6月 このころ名瀬市の人口は3万を超え終戦時より倍増する。失業者数は5千人に達する。食料は月に9千石不足。


7.13 復帰協は、第1回市民総決起大会を開催。名瀬小学校校庭に約2万人を集める。集会は「信託統治反対」「日本復帰貫徹」を決議。 


7.13 軍政府、,名瀬市民総決起大会の中止を命令。バーロー民政官が乗り込み解散を要求。プラカードの撤去と小学生を退場させることで双方が折りあう。


7.19 同じく名瀬小学校校庭で第1回日本復帰郡民総決起大会が開かれ、1万数千人が参加する。奄連青が提出した動議、①首相へ抗議文を提出、②信託統治に絶対反対、③復帰陳情団の派遣、④ハンストの実施などを決議。

「日本復帰の歌」発表。大島税務署職員の久野氏が作詞、古仁屋中教員の静氏が作曲したもの。

発表各地から70余通の激電あり。中江群島知事のほか、鹿児島の自由党代議士からも激伝が寄せられる。


7.22 笠利村(大島東北端の漁港)で村民大会。3千余名が結集。信託統治絶対反対、日本復帰の実現を叫ぶ。屋仁校区では150戸全部で1万5千円を集め、活動資金として泉復帰協議長に寄付。

 

7.24 民政府は知事・議会議長・復帰協議長ら3名の請願旅行の申請を却下。市町村代表・各団体代表ら合計30名の渡航申請も却下。ただし民間人が個人として日本で意見を発表することは差し支えないとする。


7月26日 奄美大島日本復帰協議会、昭和天皇に長文の電報を打ち、祖国復帰を訴える。


奄美大島二十余万の人民は総て信託統治絶対反対なり。陛下より吉田総理に対し、なにとぞ旧日本領土、特に陛下の御足の跡いまだ住民の記憶に生々しい我が奄美大島の日本復帰を、講和会議参加国に強く強く主張するよう、せつにお勧めあらんことをお願いする。



復帰運動が最大の盛り上がり


7月下旬 共産党を排除する思想攻撃が内外で強まる。政庁文教部主催で「留学生を囲む座談会」が開かれ、「学生の思想問題は一部の学生の問題である」との留学生の発言。


7.31 インドが講和条約草案に対する覚書を発表。信託統治は賢明か疑問であると述べる。インドネシアは、「日本から取り上げる総ての地域で関係住民の意思確認の投票を行うべき」との要求を正式に提出。


7.31 民政府、「復帰運動は政治運動ではない」と認める指令を発する。


8月1日 復帰協の泉議長が名瀬市の高千穂神社で120時間の断食に入る。これに呼応して三方・古仁屋・住用・西方・宇検・早町など各町村が相次いで断食を決行。学童も断食に参加する。


8月1日 中江知事、組合との折衝において「職務に差し支えなければ職員の断食参加は

構わない」と発言。 


8月4日 断食闘争1万人集会を決行。参加者は集会後「日本復帰の歌」を歌いながら泉に合流して高千穂の森でかがり火をたいて「民族分離反対」を祈願し断食に入る。午後10時から5日夕刻にかけて、映画館・料理屋・飲食店・商店などが一斉休業。


8月6日 日本復帰陳情員を全市町村から募り、密航陳情団が。極秘裏に編成される。市町村代表11人が高千穂神社境内で団を編成。2、3人ずつの班行動をとり、東京の指定場所で落ち合うこととする。

団員は小舟を乗り継ぎ枕崎に到着。その後列車を乗り継いで東京に達した。警察に逮捕されるものもいたが、復帰協の奔走で仮釈放され東京まで到達した。


8月16日 陳情団のひとりとして参加した松江謙志、神奈川県委員会を通して党本部に連絡。「奄美共産党の組織を正式に日本共産党琉球地方委員会の奄美地区委員会とする」ようもとめる。

方針は承認されたが、中央にはまだ正式機関としての指導連絡の責任者と機構はなく、奄美出身の党員を通じての連絡が続けられる。(このあとは、奄美共産党ではなく奄美地区委員会の名称を用いる)



講和条約成立にともなう戦略の変更


8月 奄美大島婦人連合会が結成される。婦人生活擁護会は参加を拒否される。


8月 東京の金井正夫氏から復帰協に来信。2,3年内に復帰実現もありうる。信託統治を問題にしない復帰運動をすすめるべきと「勧告」。

この後、金井正夫はしばしば登場する。奄美出身の元国会議員で、終戦後公職追放処分を受ける。1951年4月に奄美連合の復帰対策委員長に就任し、おそらく自由党筋のフィクサーとして活動している。親米反共路線に復帰運動を引き込む上で大きな役割を果たしたようだ。


9月2日 講和条約締結を前に吉田・アチソン・ダレス会談。ダレスは断食行動に対し、「ハンガーストライキは心外であり自制を望む」と語る。


9月9日 サンフランシスコ講和条約が締結される。沖縄・奄美・小笠原諸島は「本土」の独立と引き換えに米軍の恒久支配地域に入る。郡民は戸毎に弔旗を掲揚し抗議する。


9月9日 吉田首相、「奄美大島・琉球・小笠原は国際連合の統治下に置かれるが、その主権は日本国民の名において諒承する」と発言。


9月9日 龍郷連青第6回定期総会、復帰運動の方法論をめぐって8時間に及ぶ討議。「単独講和を受容し、その枠内で復帰運動を進める」とする主張が大勢を占め、「全面講和」をもとめる現連青幹部に対する不信任を決議する。


9.11 奄美連青、龍神決議を受け中央執行委員会を開催。信託統治反対、内地移住・進学・本土への送金の自由、食糧問題・税金問題・失業問題などを訴え ていくことを決議。連青の三原則の内、全面講和はその意義について下部への浸透が不十分であるとして、降ろすことを決定。

復帰協・連青は復帰運動三原則を掲げてきた。①信託統治反対、②講和条約3条撤廃・全面講和、③完全日本復帰

この内②については条約締結により、事実上きわめて実現困難となった。


9.13 復帰協の臨時代議員会が開かれる。条約調印後の運動の進め方について討議。三原則路線に対して異議が出るも運動継続では一致。連教組は「信託統治絶対反対」のスローガンを降ろすことを要求。

その後の動きを見れば奄美も沖縄も国連の信託統治とはならなかったわけだから、信託統治絶対反対のスローガンに拘泥する必要はなかったことになる。むしろ奄美をふくむ琉球の恒久基地化に反対するスローガンを押し出すべきだったかもしれない。

ただ、当時から奄美人の本音が「抜け駆け」を狙っていたとすれば、このスローガンは打ち出しにくいだろう。奄美は沖縄民政府に隷属しており、アメリカへの反感は沖縄へのルサンチマンと重なっていた可能性がある。


9.22 復帰協、全郡町村支部長会議が開かれる。社会民主党・青年団は「条約3条撤廃による完全日本復帰」を堅持。連合教職員組合の現実論と対立するが押し切る。泉議長と盛副議長から辞任の申し出あり。


9月 奄美共産党、講和条約締結に伴い、奄美社会民主党を発展的に解消。沖縄人民党と合同する方針を決定。同時に沖縄にも共産党を建設する方向を確認。


10.13 社民党第3回大会が開かれる。「復帰運動三原則」の維持を再確認。委員長に佐野喜島、書記長に大山光二を選出。泉芳朗は復帰協議会に専念するため辞任。 


10.15 奄美連青が緊急団長会議を招集。6か市町村から13名が結集。全面講和の要求を降ろし「信託統治反対」「完全日本復帰」の2本を当面のスローガンとする。大山光二団長は社民党の書記長に就任したため辞任し、崎田実芳が団長代行となる。


11月 「50年問題」で「国際派」に属した久留義蔵・橋口護・徳田豊巳らが自己批判し復党。党中央とのパイプが復活する。



琉球民政府の成立と新たな布陣


12月 琉球統一政府が発足。奄美,沖縄,宮古,八重山の四地区群島が管轄下に入る。


12月 共産党奄美地区委員会、日本共産党琉球地方委員会の強化のために,沖縄における細胞の確立と組織の拡大強化につとめる。沖縄に転住した党員が中心となる。

本土との流通を閉ざされ経済が疲弊した奄美群島の住民は、沖縄本島に職を求め移住した。6万余人に及ぶ奄美出身者は、「在沖奄美人」と称され差別された。 


12月29日 沖縄人民党第5回大会が開催される。4地区を含む琉球に於ける唯一の階級的大衆的統一党として再発足する。琉球人民党と改称する。綱 領の冒頭に「ポツダム宣言の厳正実施」をかかげ、アメリカ軍撤退、即時日本復帰の基本姿勢を確立。瀬長亀次郎を委員長に選出する。


12月29日 奄美社会民主党は人民党に合流。奄美には琉球人民党大島地方委員会が発足する。崎田が奄美代表として那覇に常駐することとなる。



1952年


奄美共産党は最も困難な、だが最もまっとうな路を選択した。奄美が琉球から切り離されて日 本に復帰する可能性も残されてはいたが、それは僥倖である。国家間の条約で琉球政府として「独立」した以上は、かなりの長期戦を覚悟した上で、琉球の人民 が一体となって復帰を目指す以外にないのである。

「果報は寝て待て」とばかりに、お上のお慈悲をお待ちしていても、血路を切り開くことはできない。ましてや民衆の解放につながるような復帰の実現は絶対期待できないのである。


1月 月間輸出総額840万円(大島紬240万円 牛90万円 黒糖512万円) 


1月19日 奄美連青が中央委員会を開催。崎田団長代行が辞任し、代行の代行に実隆三が就任。


1月30日 社民党第6回大会、社民党を発展的に解消し、沖縄人民党と組織的合流。琉球人民党大島地方委員会として再出発。中村安太郎の入党を承認し、来たる立法院議員選挙の公認候補とすることを決定。


1月30日 名瀬市青年団員山本寿子(18歳)はパンフレット「全面講和」を友人に貸したことを理由に非公開の軍事裁判で懲役2ヶ月、罰金2500円を言い渡される。 


52年1月 日本共産党琉球地方委員会、基本党の確立を主張。沖縄人民党の瀬長亀次郎書記長らはこれを受け入れなかったため、党は従来通り奄美出身者の党員を中心にグループ活動を強化した。


2月 復帰協、各種団体代表者会議(新方針を協議。①持久戦に備える組織の体制固め,②年間50数万円の必要経費の捻出,③緊急に第2次署名を展開する、などを決定。

琉球民政府との闘いの開始


3月10日 琉球立法院議員の選挙。奄美の笠利投票区では人民党から中村安太郎が立候補。不正投票のために80票の差で次点になる。(7月に全村大会で3千人を集めた村です)


3月10日 引続き行われた地方選挙で名瀬市から3人、ほか三方村(今は三方という地名そのものがなくなっています。名瀬の東隣の大熊、徳洲会病院あたりが三方村と呼ばれていたようです)、古仁屋町で人民党公認候補が勝利する。


3月10日 人民党、選挙無効の異議を郡選管に申し立て。


3月29日 奄美からの出稼ぎ者を対象とし奄美共産党の沖縄細胞が成立。第一回会議で細胞長に林義巳を選ぶ。


4月1日 米軍、琉球中央政府及び奄美地方庁を設立。中央政府の主席は任命制となる。奄美群島政府は閉鎖される。


4月28日 講和条約が発効。奄美沖縄小笠原は正式に日本から分離される。復帰協の泉会長はメッセージを発表。日本復帰のため「条約第3条の撤廃を求める」と述べる。この日を「郡民屈辱の日」と宣言。


4月28日 名瀬市議会、講和条約第3条の撤廃を柱とする復帰決議案を採択する。


4月29日 琉球立法院の本会議が開かれる。奄美を含めた琉球の日本復帰に関する決議案を27対2で可決する。具体的な道筋と関連して、第3条の問題が白熱化する。瀬長亀次郎議員の「条約第3条撤廃を盛り込むように」との動議は否決される。


5月1日 奄美で初のメーデーが決行される。「条約3条撤廃」「即時日本復帰」「労働保護法の制定」「人権擁護」などを決議。数日後、青年団代表が米軍情報官の取り調べを受ける。


5月3日 古仁屋で祖国独立祝賀並びに日本復帰促進郡民大会が開かれる。5千人が参加し提灯行列を行う。


5月21日 笠利の立法院選挙。不正投票があったとして無効判決が出される。人民党は「今後もなお闘わん」との声明を発表。



三条撤廃・復帰路線の再確立


6月5日 沖縄の日本道路会社で労働争議が発生。奄美からの出稼ぎ労働者が中心となって立ち上がる。奄美共産党メンバーが指導。立法院は瀬長議員発議の「日本道路社労働者の待遇改善について」を決議。


6月18日 復帰協代議員会、3条撤廃署名実施の具体化。笠利村の青年団では幹部会が開かれ、奄美連青からの脱退を決定。


6月20日 大阪府復帰対策委員会本部、総本部に対し「復帰運動を一部の政治勢力が利用することに反対する」との進言書を提出。


6月25日 日本道路のスト、完全勝利をかちとる。清水建設は解雇を撤回。スト期間中の賃金は支払うと約束。このストは沖縄を始め全琉球の労働者を目覚めさせ,団結させる歴史的意義。このあと松村組,清水組砕石工場,K.O.Tでの闘争が相次ぐ。


6月28日 「奄美大島の完全日本復帰をめざす郡民総決起大会」が開かれ1万人を動員。講和条約第三条の撤廃、日本の諸法規の全面的な実施を掲げる。さらに琉球立法院に「三条撤廃の請願決議を即時議決せよ」との要求を突きつける。


6月28日 民政府のミルス法務官、郡民大会で決議された「軍事占領法規の廃止・日本諸法規の全面実施」と「売国 吉田・比嘉政府打倒」が布告32号違反容疑であると判断。泉議長に対し出頭を命ずる。


7月 食糧事情深刻さを増す


8月15日 統合参謀本部はフォスター国防副長官に対し、「極東における政治的・軍事的状況が、アメリカにとって好ましい形で安定するまで琉球諸島・小笠原諸島の現状は変更すべきではない」と勧告。



米軍が直接反共攻撃・弾圧


8月19日 立法院本会議場において、ビートラーメッセージが発表される。「人民党は国際共産主義の政党であり、取り締まる方針」である。「笠利の再選挙では中村安太郎に投票してはならない」という内容。


8月24日 笠利選挙区で琉球立法院議員のやり直し選挙。人民党の中村安太郎候補が民主党候補を破り当選。


9月7日 市町村長・議員選挙が行われる。名瀬市長選挙では復帰協の泉芳郎が6613票を獲得し勝利。連教組と医師会などが支持した相手候補は 4403票。泉は「市民大衆の知性と社会正義の勝利だ。さらに完全日本復帰への民族感情,ボス政治への反感,公明選挙への自覚が勝利をもたらした」とコメ ントする。


9月8日 復帰協中央委員会を開く。連教組と医師会から「信託統治反対・完全日本復帰・条約3条撤廃の基本スローガンを取り下げる」ように要求されたが不採択となる。


9月20日 米国民政府は人民党の機関誌発行許可申請を「人民党の目的は日本共産党と

一致している」として却下。この頃から「条約3条撤廃は共産党の扇動によるもの」「人民党の指導する復帰運動では目的は達成できない」とのデマが流される。


10月1日 臨時市議会において泉市長は「日本復帰達成を市政の最重点とする」ことを訴え

る。人民党から「条約第3条撤廃決議案」がだされ採択される。野党は「現在の復帰運動は行過ぎている」とし、反対に回る。


10月14日 コザ警察署が半年間の売春摘発の実態を発表。「検挙売春婦の5割強は大島出身者」とする。


12月2日 泉市長、国民大会で「大島はもぎとられた腕」と絶叫する。


12月18日 『平和』押収事件が発生。名瀬市議の大山光二(人民党)らが日本平和委員会の機関誌「平和」を市役所職員に配布したことが違法とされる。大山は逮捕された上、市議の資格を剥奪される。



1953年


連青の大衆化への模索


1月7日 連教組を主体とする革新同志会が、連青への批判を強める。復帰協を改組するようもとめ署名運動を展開。


1月10日 復帰協名瀬支部の代議員大会、政党色の排除(人民党の排除)を決定。当面の運動方針としては、「条約第三条撤廃」と「鹿児島県大島郡の即時復帰」の二本建てでいくことに決定。


1月17日 「沖縄諸島祖国復帰期成会」による第一回祖国復帰総決起大会、那覇劇場において開催。構成団体6団体。


1月17日 全郡青年団幹部と社会教育主事の合同懇談会、連青組織が共産党色を出しすぎて、大衆から遊離したと判断。「奄美連青」を解散し、全郡団長会議を最高の決定機関とする。


53年1月 民政府、「赤い読み物鉄則」を発表。共産系出版物の輸入を禁止する。


2月1日 亀津町で奄美連青団長会議が開催される。大衆化の方向を目指す新活動方針を決定。従来の連青の性格を反省、政府当局にも援助を依頼、公民館と提携した運動を強化するなどの新活動方針を決定。幹部役員も交代するが、その後4月頃まで活動が頓挫する。

アカの巣、奄美を切り離せ


53年3月 アリソン国務次官補のメモ。奄美は戦略的重要度が低いため、軍事目的に必要な権利を確保したうえで日本に変換する。


53年4月 伝統産業の大島紬が不振にあえぐ。製造工場は戦前の2割にとどまる。


7月27日 朝鮮戦争、休戦協定が調印される。


53年7月 沖縄に於いて日本共産党琉球地方委員会総会を開催。人民党の瀬長亀次郎書記長と島袋嘉順組織部長がこれを機に入党。

総会は党中央に対し 1.琉球地方委員会を下部組織として承認すること、 2. 琉球地方委員会の地域綱領すなわち新綱領にもとずく行動綱領を決定すること、 3. 中央に琉球ビューローを設置すること、などをもとめる。その他、琉球人民党を党の外カク組織としてではなく合法舞台として確認し,綱領規約の改正をはかることももとめる。


53年8月 奄美地区共産党党大会、即時無条件復帰,完全復興,沖縄小笠原返還の方針を確認。党中央は,琉球地方委員会を日本共産党の下部組織として統一指導することを確認する。


53年8月8日 ダレス国務長官、朝鮮視察後に吉田首相と会見。奄美大島の日本返還を表明する。以後、復帰運動の主流は右翼勢力に握られ、人民党は取り残される。


53年夏 奄美を旱害が襲う。農村部では早くもソテツ食が始まる。


53年10月 日本共産党の琉球地方委員会としての方針のもとに、アメリカ帝国主義の植民地化に対する闘争を強化。基地労働者を中心とする十万労働者の組織化に重点をおく。琉球地方委員会はほとんど奄美出身の党員によって構成され,沖縄細胞として活動した。

合法面では人民党を始め各種社会団体議会を通じて労働法規の制定,条約三条の撤廃,即時祖国復帰,アメリカ軍の土地取り上げ反対,人権ヨーゴを訴え議会においては決議案などを上程するなど植民地政策をバクロし,これに対する抵抗組織の確立をはかる。


53年11月

11月7日 衆院本会議「沖縄及び小笠原諸島に関する決譲」を採択。


11月10日 名瀬小学校校庭で第24回総決起郡民大会。7千人が参加する。奄美小学校の児童が12時間断食を決行。


11月20日 ニクソン副大統領が沖縄訪問。「沖縄の放棄は米のアジア撤退と同然である。共産主義の脅威があるかぎり、沖縄を保持する」と言明。


11月24日 山田耕筰作曲の復帰祝賀の歌「朝は明けたり」が完成する。


11月29日 衆参両院調査団歓迎の第25回軍民大会。1万人が結集する。


11月 奄美地区委員会、奄美地区の復帰実現後の情勢を分析。(1)琉球地方委員会から奄美地区機関をきり離すこと、(2)中央に急いで琉球ビューローを確立すること,(3)奄美地区機関を県党機関所属にするか琉球ビューロー所属にするかを決めることをもとめる。


11月 党中央、南方地域特別対策委員会を設置。琉球の党組織の指導にあたる。中央の「南方地域特別対策委員会」の国場幸太郎が来島し、琉球地方委員会との正式連絡。



53年12月

12月4日 党琉球地方委員会が総会。党中央の方針を確認。奄美地区の党機関については琉球地方委員会から離れ,党中央に従って所属機関を決 定することとなる。中央への答申のため奄美地区委員会の崎田実芳代表を派遣することを決定。琉球地方委員会は日本共産党沖縄県委員会と改称。


12月13日 琉球人民党第二回大会。新たな状況に合わせ綱領・規約を改正。


12月17日 沖縄市町村長会、奄美が復帰するなら、奄美人は(奄美に)返してほしいとの要望を決議。


12月25日 奄美大島の返還協定が正式に調印される。「ダレスのクリスマス・プレゼント」と呼ばれる。


12月27日 奄美連合青年団の主催で演説会。7千人を結集する。


12月27日 人民党大島地方委員会第二回党大会、党の解散を決定。



1954年

1月12日 「結成から現在まで琉球における党の歩いて来た道」(手書き20ページ)が発表される。

1月16日 奄美大島復帰協議会が解散、あらたに復興民主化同盟が結成される。


2月 共産党地区委員会が公然活動を開始する。奄美労働評議会が結成される。


2月 復帰に伴う総選挙が実施される。全国の共産党の応援隊や,労農党や,民主的諸党派,労働組合,大衆団体の支持を受けて,選挙戦を闘ったが、民主化同盟の立てた中村衆院議員候補、大山県議候補はいずれも落選。


1956年4月 「資料 戦後十年間における奄美の党の歩んだ道」(日本共産党奄美地区委員会,謄写版6ページ)が発表される。「結成から現在まで琉球における党の歩いて来た道」を一部修正したものとされる。


1958年7月12日 「沖縄・奄美大島における党建設とその活動」(日本共産党南西諸島特別対策委員会,手書き31ページ)が発表される。


59年 奄美のガンジーと呼ばれた泉芳朗が死去(54歳)。


1982年 『日本共産党の六十年』が発表される。公式党史に戦後奄美共産党の活動が記載される。