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小熊研究会1最終レポート
「沖縄」
はじめに
本レポートにおいては琉球処分以後の日本政府の沖縄に対する政策を概観した後、沖縄の人たちの運動や思想をまとめていく。
結論から先に言えば沖縄で行われた運動や思想はいずれも沖縄にとって利益になると考えた上でなされている。
高良倉吉でさえもそうであり、彼はただ本土の保守勢力に利用されていたに過ぎないのである。
また彼らはアイデンティティを模索していたというよりは沖縄にとってのプラスを獲得するパフォーマンスを言説から本土が振り向きそうな言葉を拾ってきて行っていたのである。
それをひとつの支配的なディスコースで行うかそうでないかが復帰論や独立論、反復帰論といった異なる形をとらせたのである。
そしてまた支配的なディスコースにおける沖縄の利益追求が裏目にでて、沖縄の中の弱者にしわ寄せがきてしまうことがあったのである。
日本政府の姿勢
沖縄に対する日本政府の姿勢をまとめる。
一貫して言えることは沖縄を「軍事基地」として確保することを第1目的としていたことである。
というよりそれが全てであったといえる事である。
明治から終戦までは日本軍の基地として、戦後は日米安保体制化のアメリカ軍の基地として沖縄本島確保は日本にとって重要であった。
戦前は沖縄を日本へ包摂しできるだけ日本政府への忠誠心を高くすることを政策目標とした。
ただし朝鮮の場合と異なりあまり日本政府はお金を出そうとしなかった。
当初は統治コストや差別意識から琉球処分に反対する声があったが、国防に対する拠点という意味合いから処分推進論が優勢となり、1982年10月に琉球王国を琉球藩とし、1879年には沖縄県とした。
台湾出兵とその後の日清交渉で日本が打ち出した沖縄が日本であるとする根拠が為朝渡来伝説などの歴史と言語であった。
具体的には日本政府は教育面での「日本人」化を先行し、制度面は後回しにして旧慣温存政策をとった。
その教育においては徹底的な日本人化を行った。
まず沖縄人が歴史的・民族的に日本人であるという意識を植え付け、また沖縄の「進化」した形態が「内地」であり、そうである以上、「内地」に同化することが沖縄の「進化」であるとした。
こうして沖縄の言語や日常生活のあらゆる風習を蔑視し、また沖縄人に郷土的なものに対する蔑視を生ませ、彼らに劣等感を植え付けた。
このように政府は「遅れた」沖縄を「文明化」することを強調した。
しかし「文明化」を強調しすぎると沖縄住民の憧憬や忠誠心が欧米諸国に向いてしまうためあくまで「日本化」の強調を優先した。
1945年8月に太平洋戦争が終わると沖縄は日本人であり日本人ではない存在になった。
沖縄の人々には日本人としての人権が与えられないし、また政府は沖縄に対して余りお金を出そうとしなかった。
領土としては「日本」の一部であり、国籍においても「日本人」であるのだが、日本国憲法は施行されず、参政権もなく、戸籍の移動や渡航は制限され、三権を独占した軍人総督に統治された存在であった。
アメリカは暫定措置として規定された施政権の独占を行った。併合してしまえば沖縄住民に「アメリカ人」としての人権を与えねばならないし、信託統治の提案は国連に縛られることとなるので行わなかった。
アメリカは琉球住民の日本への帰属意識を断ち切ることにしたが、「アメリカ人」に同化する政策は行わなかった。
こうして「アメリカ」であって「アメリカ」でない土地として沖縄を統治した。
しかしその後アメリカは沖縄統治の負担に耐えられなくなった。
沖縄の統治費用を高めた要因の一つが沖縄側の反対運動の高まりであったので、その意味で復帰運動は意味のあったものだといえる。
1972年に沖縄は日本に返還されることになるのだがそれは日米の利害が一致したからであった。
当時日本では学生運動の盛り上がりの中でナショナリズムが高揚していたので政府は沖縄返還で片をつけようとしていた。
一方アメリカにとっても施政権返還によってコストの削減を図ることは合理的であった。
費用負担はできる限り日本に負担させるのがアメリカのねらいであり、78年からは日本政府は思いやり予算を実施するようになった。
要はアメリカが沖縄統治を放棄し、それを日本が穴埋めをしたのである。先ほど復帰運動は意味のあるものであるといった。
確かにこの運動がなかったら沖縄を日本に復帰させることができなかったかもしれない。
しかし結果は当初望んでいたものとは違うものとなった。
以後日本政府は沖縄に補助金を出すことで不満をなだめることにした。
復帰後の沖縄経済はまさに薬漬け状態であり、ザル経済であった。
沖縄開発庁が設置された。
これは名目的には復帰前に比べ存在した格差是正と自立経済育成を目的としていたが、実際に行った政策を見ていくと本当に自立経済を育成する気があったのか疑わしいものである。
主に行ったことは土木工事、イベントの誘致であった。
公共事業はほとんど本土側が受注し、沖縄の土建屋はほとんどが中小企業で下請けしかできなかった。
公共工事ではとても自立できるとはいえなかった。沖縄海洋博覧会では本土の電通等の企業が企画を引き受けていた。
また沖縄ではほとんど製造業を誘致できていない。
というのもいい土地は軍用地にとられているし、電力代が高く、輸送費の問題があるからである。
こうした点を踏まえると日本政府には沖縄を自立させることは当然なく、当然長期的な構想は持ち合わせていないといわざるを得ない。
恐らく基地の問題がなければ沖縄にお金を出すことはないだろうし、沖縄開発庁にしても基地の問題は外務省に押し付け、公共事業の取次ぎしかしなかった。
沖縄にとってはある程度お金を出してくれる以上の存在ではなかったといえる。
以下で沖縄における運動をまとめていくことになるが、この場合に注意しなければならないことがある。
それは沖縄における保守と革新という言い方である。
これは半分正しく、半分間違いである。
確かに沖縄の保守や革新は本土の保守や革新と結びついて系列化したものであった。
ただし本土側の保守や革新の通りには動いてはくれなかった。
東京から見た沖縄で基地賛成派は沖縄の保守であり、反対が革新である。
しかし実際には基地をカードに利益を引き出すのが沖縄の保守であり、基地のないしまになってほしいとするのが沖縄における革新である。
結果としてはイデオロギーの対立となるが、その要素は弱い。
土建業界の本音は基地反対運動をやってもらい、本土から補助金が下りるのを期待しているという。
要は島の利益をどういう形で表出するかの違いである。
沖縄ナショナリストとして太田朝敷や伊波普猷あるいは高良倉吉などの人物が出てくるが、沖縄にとってどうすることが利益になるのかという考え方の違いで行動が異なるのである。
本土側が振り向きそうな言葉を言説の中から拾ってきてパフォーマンスを行っているに過ぎないのである。
例えば基地と共存を唱えることが必ずしも保守を意味するわけではない。
これも半分本当で半分うそなのである。
当面状況が悪くなったから共存を唱えているだけで、状況によっては平和運動を高良倉吉でさえやるかもしれないのである。
独立論と復帰論
戦後、沖縄でまず起ったのが独立論である。
これは、沖縄人は日本民族とは異なる「少数民族」であるという民族観と琉球処分は日本の侵略であったという歴史観、アメリカは民主議の本場であるというアメリカへの信頼と日本への不信感が背景にあった。
本土在住の沖縄人メディアにおいては日本への批判と「沖縄民族意識」は濃厚なものがあったという。
沖縄本島においては沖縄民主同盟が「独立共和国の樹立」を掲げた。
本土では日本共産党が党大会で「沖縄民族独立を祝うメッセージ」を発表し、社会党代表は「将来は当然沖縄民族の自決の意義を考えねばならぬ」とコメントし、朝鮮人連盟は「沖縄人は沖縄の自由な国を作ることが沖縄人民の幸福」とコメントした。
独立論は上述の日本観とアメリカ観、それらと連動した「沖縄民族観」に立ってのものであったが、次第にアメリカ支配に対する幻滅が広がるにつれて、この帰属論に揺らぎが生じることになっていった。
続いて復帰論の説明に移りたいと思う。初期の復帰運動は保守運動としての復帰運動であった。
強固に日本との文化的一体感を強調する人々が非政治的立場から「民族的な本能」といった言葉をつかいながら日本復帰の主張した。
しかし余り盛り上がりを見せなかった。
なぜなら、沖縄の日本返還要求は、当時の本土では帝国主義的侵略と同等のものとみなされおり、また沖縄の日本復帰を支持する国際的な動きが余りなく、さらに沖縄では本土の情報が入らず、沖縄のほうがむしろ本土よりもより良い生活を送れているという情報しか得られなかったこと、40年代の沖縄のマスメディアの間では帰属問題の関心が薄かったこと[i] 、戦争による徹底的な破壊のため、衣食住などの最低限の生活すら保障されず、生きるために精一杯であったことが理由としてあげられる。
しかし、講和会議が行われるという情報が入ることによって50年代になって帰属論議が再び盛り上がりを見せるようになった。
復帰賛成派は日本との同一性を主張した。
日本と沖縄は不可分であるとして日本との同一性を主張し、また戦前の大日本帝国と民主国家日本の違いを強調し、日本に対する信頼を表明した。
この頃になるとアメリカが沖縄に強固な基地を置こうとしていることが明確になる一方で、平和憲法、民主憲法を持つ日本が独立していこうとしている現実を前に平和憲法下への復帰をという言葉が生まれてきた。またこの立場の人たちは復帰反対論と違い琉球王国に対して低い評価をしていた。
沖縄を一体のものとみなす沖縄ナショナリズムを掲げる復帰反対論に対し、沖縄内部の階級分裂を指摘することで対抗していたといえる。
復帰反対派は日本への不信とアメリカへの信頼を表明した。
日本はアメリカより貧しく、民主化の度合いも低く、経済的にも政治的にも復帰によって沖縄は得るものがない。
むしろ復帰すればアメリカから得られる恩恵が日本に奪われ、徴兵や納税の義務だけを負うことになる。
日本よりアメリカが優位にある限り、政治的にも経済的にも日本よりも自由を与え得るであろうと考えられていた。
この立場は冷戦関係化での日米関係は不変であるという観測、すなわち冷戦体制下でのアメリカに対する従属関係を前提としていた。
世論の反応は日本観とアメリカ観との組み合わせによって復帰支持と復帰反対が分かれていたが復帰反対派少数にとどまっていた。
(1951年の3月から4月にかけての青年連合会による世論調査によると、復帰86パーセント、信託統治7パーセント、独立2パーセント、その他4パーセント)
初期に弱かった復帰論がなぜ強まったかというと、この頃の復帰論者は敗戦直後に独立論者だったものが復帰論に転換したものが多かった。
表面的には沖縄人は本来日本人であるので当然日本に復帰すべきという論調が多かったが、本質的な動機としては「日本人」であるから復帰するというよりも、「日本人」になるために支払った「過去一世紀の努力」を無駄にしたくないという感情が強くなったと考えられる。
戦前に制度としては一応の平等は達成されていたし、経済的な面から見ても、復帰すれば日本政府から援助が受けられると期待されていたし、文化的な面でも過去一世紀に払った努力は無視できないものがあった。
いずれにしろ復帰への賛否は、日本に同化するかアメリカに同化するかの無意識の選択を前提としていた。
支配者側から「異民族視」されることへの恐怖と、そこからの脱出方法は同化であるという意識がこの復帰論には刻まれていた。
この観点から考えると同化努力の蓄積という点では日本への復帰のほうが有利と考えられていたのである。
講和条約後から1950年代半ばの復帰運動は人権改善要求により日本の法規による保護を求めた。
具体的な要求としては労務賃金の引き上げ、団体交渉権の承認があった。
またこの頃より本土との経済格差が拡大した。
こうして復帰によって日本人になれば豊かで平和な生活が待っているという期待が年とともにどんどん強まっていった。
続いて親米反共を掲げた復帰運動が起った。
この時期の復帰運動の全てが反米反戦をうたっていたのではなく、親米反共を掲げるものも多かった。
共産主義という共通の敵を排除の対象とすることで日米の一体性を協調し、日米が一体であるとすることによって、日本への復帰が反米ではないことを示そうとしていた。
革新陣営が独立を唱えていた状況の延長上復帰論が保守の側から唱えられていたが、復帰運動をしただけで「共産主義者」とみなされ検挙されないために復帰運動が親米反共を表面上唱えていたといえる面もある。
50年代の復帰運動においては目的が沖縄の民生向上であり、復帰が実現すればとりあえず前進だから反戦などの特定の思想を掲げていないものが多かった。
しかし、アメリカは沖縄の既得権を手放したくないためこの復帰運動にも反発。
また日本政府は沖縄のためにアメリカを刺激するリスクを払う気がなく、政府の沖縄への取り組みは熱のないものであった。
こうしてアメリカ経由の親米反共の運動が明らかになった。
さらに沖縄にとってアメリカ観が悪化する事件が起った。
以下に代表的な二つの事件を述べる。
琉大事件
米軍の意向を受けた琉大当局による学生処分事件。
学外で原爆展を催した、灯火管制中(防空演習)に寮でランプをつけた、無届で出版物を出した等の理由に基づく第一次琉大事件(1953年)と反米的言動を理由にする第二次琉大事件(1956年)がある
島ぐるみ闘争
1956年6月、戦後初めて爆発的な勢いで燃え広がった全沖縄的規模での大衆運動。
直接的な契機は米議会に提出された調査報告書(プライス勧告)が従来の軍用政策を是認し、沖縄の長期保有を勧告したことにあった。
沖縄にとっては民生の向上が第一であり、自分達の運動が右か左かなどは二の次であった。
しかし本土の政治勢力にとって沖縄の運動が右左どちらなのかが意味を持っているので、沖縄も本土の支持を得なければならない関係上、止むを得ずその分類に当てはめる形で主張せねばならなかった。
保守は沖縄の期待に答えられないものであったし、親米反共を掲げた運動はアメリカに拒否された。
こうしたなか沖縄の期待に答え得るとされたのが革新勢力であった。
また本土においても沖縄復帰は保守ではなく革新の主張となった。
こうして起ったのが革新ナショナリズムである。50年代から60年代にかけての沖縄の復帰運動は、沖縄を日本の一部とし、米軍によって分断された「日本人」が民族の統一によって一体となることであるとする見解が革新勢力の主張として定着していった。
そこでは本土との対立や琉球処分の侵略性を指摘することは、沖縄を「異民族視」する差別であり、アメリカ帝国に内通する「琉球独立論」であるとされた。
続いて沖縄教職員会の国民教育運動(教職員組合が行う復帰運動)の説明に入りたい。
これは米軍の教育に対する冷淡な待遇(教員の給与や設備)に対し、状況改善のためには本土の援助に頼るしかないという発想からの復帰運動である。
つまり単純な日本への思慕による復帰運動ではなく、教育環境、共通語、「日本人意識」を「本土並み」にすることを目指す運動であった。
この運動の要因は本でへの格差意識、米軍の圧力、戦前教育の残滓、規律引き締めの意識が渾然となっていたといえる。
また日本へ対し幻想を抱き、かなり本土は美化された存在になっていた。
共通語奨励運動「方言札」の復活によって沖縄語の使用を禁止したり、児童生徒を通して各過程における「日の丸」「君が代」奨励運動を行った。
文化やアイデンティティの面で「日本人」になることを先行させることで、「日本人」としての権利を獲得することを目指していたと言える。
教員は本土との格差意識により「日本人」との同化志向を目指していたし、児童は「日本人」であろうと努力した。
オリエンタリズムの視線や差別が児童たちをいっそう「日本人」へのめりこませていった。
本土の人の沖縄に対する無知
「沖縄はどこにあるのでしょうね。フィリピンの近くですか」
「沖縄の人種は本当に日本人ですか。少し違うのじゃありませんか」
「言葉はどんな言葉ですか。だいぶ中国語に似ているのじゃありませんか」
「教科書は英語ですか」
(『婦人公論』1958年3月号)
「日本人」を目指した動機は児童たちが置かれた被差別状況からの脱却願望からであったといえる。
そこでは日本人=人間の尊厳、未来への希望であった。
また復帰が現実的な選択肢であるという認識がある一方「祖国」とは何かという心情の二重性があった。
こうした中「教公二法」問題が起り、自体は変化していくことになる。
これは政治活動の弾圧を意図したものであり、よって復帰運動が弾圧される怖れのあるものであった。
結局廃案になるが教職員会はこの闘争過程で沖縄保守と政党との決定的な亀裂が生じ、革新系野党人民党との共闘体制を強めることになった。
続いて日教組が沖縄国民教育運動批判を行った。
「日の丸」問題は単に戦術的に理解してやるべきだということではかたづかないもっと本質的な思想の統一性の必要があるとし教員や児童の価値観の転換を促した。
さらにベトナム戦争によって経済的利害より「平和な祖国」への期待が強まっていった。
ここにおいて「日の丸」復帰から反戦復帰へという流れが出来上がった。
「日本」や「日本人」としての象徴として「日の丸」や「君が代」に変わり「平和憲法」を掲げるが、この方針転換に対すて現場では戸惑いが生じていた。
地区報告
「祖国復帰のシンボルとして推奨してきた日の丸掲揚をいきなり180度転換した場合に児童の混乱が予想される」
「日の丸=祖国日本と考えている75.6%の児童を同説得するのか」
本土復帰後に沖縄教職員委員会は日教組の傘下に入り、文部省の日の丸掲揚方針への反対姿勢を示す
ようになった。1980年代には「日の丸」「君が代」への抵抗が強い地域として注目されるようになっていった。
反復帰論
沖縄が日本に復帰したわけではあるがそれは必ずしも沖縄の人たちの望みどおりにはならなかった。
新崎盛暉は「60年代末期になって、日米両政府が沖縄返還政策を打ち出してくる段階になってくると、僕は、いまや復帰を実現させなければならないと考えているのは、人民の側ではなく権力の側である、彼らの必要性によって、彼らの望むような形で、これまでの民衆の運動を逆手にとって復帰を実現しようとしている。したがって、これに対しては全面的な否定という話になっていく」[ii]と語っている。
当時は日米両政府の復帰プラン、革新側の反戦復帰と民族統一路線、保守系からの民族独立論が複雑に交差して存在していた。
こうした中登場したのが反復帰論である。
従来の復帰運動を問い直す思想である。
この思想は「日本人」への包摂と排除を行いつづけた国民国家のありようそのものを問い直すものである。
また復帰を政治経済上の問題とするよりもアイデンティティ上の問題とした。
代表的論者の新川明氏は「反復帰論とは、現在この地球上を埋め尽くしている国家群のそれぞれが、国家という幻想空間の中で死守している統合の秩序に対する限りない申し立てであり、これを突き崩すための思想の営み、精神の働きである。」[iii]「分権にしろ独立にしろ、非常に狭い意味での沖縄ナショナリズムみたいな閉鎖的な生存空間、社会空間をイメージするなら、これは意味ないと思います。
これはまるで今の日本の血統主義をミニサイズにしただけの話で、そこからイメージされる国というのはミニジャパンになるだけの話です。」[iv]と述べている。
「日本」を「国民国家」として独立させるために「日本民族」の統一を掲げ、「沖縄」を「日本人」統合させようとすること(従来の復帰論)を拒否し、また沖縄内部に存在する地域格差への自覚から沖縄ナショナリズムには複雑な姿勢を示す。
というのも単一の沖縄民族の境界をどこに引くのかという問題に直面してしまうからである。
沖縄が独立してもそれが既存のナショナリズムと国家の原理によるものであれば、排除と同化の関係を縮小再生産するに過ぎないからである。
この思想は沖縄の異族性をもって国民国家そのものの論理に対抗したといえる。
「異族」とは国家の同一性かを拒否する個人の指向を意味するものである。
すなわち、沖縄人が学術的な意味で日本民族の一員であるか否かという議論とはここにおいては無縁となる。
反復帰論を沖縄のアイデンティティとの関係で考えてみたい。
これは政治的な現象として捉えるよりもアイデンティティ上の問題として捉えている。
日本国家を相対化するために沖縄国家を作るのであれば、結局あるナショナリズムを否定するために別のナショナリズムをもってくることに他ならず、沖縄にもとからあった文化や言語を基準に沖縄アイデンティティを創ろうとすると沖縄の範囲をどこにするのかという問題にぶつかってしまう。
そこで沖縄の「もと」の文化や言語がどうなろうと沖縄のアイデンティティは崩れることないようにする必要がる。
その意味で国家への同化を拒否する志向である異族生をもって沖縄アイデンティティを考える反復帰論は、人種とか血統で沖縄であるかという議論とは無縁になり、極端に言えば沖縄の外部にいる人にも、開放性のあるアイデンティティを創ることができる。
反復帰論は同化か自立化の二者択一の議論を強いる言説を拒否するものであるといえる。
つまり日本に同化かそれを拒否して沖縄だけで閉じるのかどちらかを選ぶという議論から抜け出すことができるのである。
まとめ
琉球処分後沖縄は日本に「統合」されることになるが、「統合」とは国民的同一性の形成を要求する。
沖縄では上記の同化政策が行われ、また沖縄人の側も進んで国家に同一化することで社会的な差別や経済的貧困からの脱却を求めて日本国民化の志向を目指した。
これをささえたのが太田や伊波ら言説であった。
太田は「沖縄今日の急務は何であるかと云へば、一から十まで他府県に似せることであります。
極端にいへば、クシャミすることまで他府県の通りにすると云う事であります」[v]と述べ、沖縄が発展していくためには、結局日本に同化していくしかなく、そのために沖縄は自助努力をする必要があり、それが沖縄の生き延びる道であると主張した。
伊波は日本と沖縄の対立、沖縄内部の対立をいかに調和に導くかという観点から「日琉同祖論」を唱えた。また戦後アメリカ占領時代に米軍統治の過酷さや「平和憲法」を持つ国日本への憧憬から日本復帰運動(統合)が沸き起こった。
支配者側の都合によって「日本人」であって「日本人」でない存在とされた沖縄の人々は「日本人」との関係の中でアイデンティティを模索するのであるが、これらはいずれも沖縄の人たちが自分達のためになると思って選択したパフォーマンスであったといえる。
しかしこうした統合を選ぶことは「日本」側が設定した選択肢、すなわち日本あるいはアメリカ=強い側のディスコースの中で選択肢の選択であったといえる。
結果「日本」側の枠組みに振り回され、また裏切られることになった。
この言説内での沖縄の利益追求の負の面を負担させられたのが国民教育運動における児童であった。
反復帰論とは今までの沖縄の独立論や復帰論―同化か分離を強いた支配的なディスコースを拒否する思想であった点がその最も大きな特徴であったといえる。
近年、稲峰県政のブレーンとされる知識人らによって沖縄の自己批判がなされている。
「沖縄イニシアティブ」である。
「被害者意識」という情念からの脱却と、「基地との戦略的共存」を唱え、日本の中の沖縄の位置を認めた上で、基地との共存を認めること、日本政府との共存の中で自己決定権・自立を獲得していくことを主張した。
この主張は本土の保守系メディアからは絶賛されていた。
もちろん彼らも沖縄にとってそれがプラスになると考えての上でこのパフォーマンスを取っているのであるが、これも日本という強者の支配的ディスコースの枠内においての主張である。
得てしてこの枠内で主張していくことは沖縄の過去の歴史を見ても、プラスになるとは考えにくい。
復帰論、独立論は沖縄にとってのプラスを獲得するパフォーマンスであり、それは支配的なディスコースで行うか、あるいは日本、アメリカ、保守、革新などの別の支配的なディスコースで行うかの違いであったといえる。
反復帰論はこの支配的なディスコースを拒否する思想であり、従来の思想とは大きく性格を異にしている。
この点に従来型の思想が抱えた問題、すなわち日本側の仕組みに振り回され、裏切られる(特に沖縄社会においての弱者-本論の例で言えば児童がそれにあたるが-において顕著)という危険から逃れられるという意味で反復帰論という考え方は非常に興味深いものである。
著者紹介
新川明
1931年沖縄生まれ。
1955年、琉球大学文理学部国文科を中退、沖縄タイムス社に入社。同社八重山支局長、『新沖縄文学』編集長、『沖縄百科事典』編集長、編集局長、社長、会長を勤め、1995年退任。
沖縄出身の父親と本土出身の母親の間に生まれる。幼少期をかつて沖縄の偏狭として琉球王国から搾取された八重山で過ごす。
小熊英二
1962年東京生まれ。
1987年東京大学農学部卒業。出版社勤務を経て、98年東京大学教養学部総合文化研究科国際社会科学専攻博士課程修了。
<参考文献>
新川明(2000)『沖縄・統合と反逆』筑摩書房
新川明・新崎盛暉「沖縄にとって<復帰>とはなんだったか」『世界』1985年6月号
新川明・池澤夏樹「沖縄独立の夢を語ろう」『世界』1996年8月号 岩波書店
新川明「語やびら、沖縄世」『世界』1997年9月号 岩波書店
新崎b(1996)『沖縄現代史』岩波新書
小熊英二(1998)『日本人の境界』新曜社
小熊英二 (2000)「沖縄アイデンティティの行方」『ウチナーンチュは何処へ』実践社
高良倉吉・浜下武志・我部正明「<沖縄ルネサンス>その可能性」『世界』1997年9月号
比嘉春潮・霜多正次・新里恵二(1960)『沖縄』岩波新書
[i] 日本本土との郵便取り扱い業務が始まったのは1947年6月、ただし船の往来はほとんどなく、実際には翌48年3月の航空便の取り扱い開始で初めて通信機能が復活した
[ii] 「沖縄にとって<復帰>とはなんだったのか」『世界』1985年6月号
[iii] 『沖縄統合と反逆』
[iv] 「沖縄にとって<復帰>とはなんだったのか」『世界』1985年6月号
[v] 1900年の講演
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