『戦後沖縄史』 新崎盛暉 19760110 日本評論社

http://www.arsvi.com/b1900/7601am.htm
■内容
本書において試みようとしたのは、沖縄戦後史の中間総括である。ここでは、通史的記述をめざしてはいない。むしろ、よりよい戦後史が書かれるためのたたき台の提供、できるだけ多くの論争点の発掘に重点を置いている。それは、これまでの沖縄戦後史の分析・記述に際しては、前提となるべきこうした作業が、もっともおろそかにされてきたことの一つだと考えられるからである。
(「BOOK」データベースより)
■目次
序章 時期区分について第一章 軍事占領初期の動向――45年4月~49年後半
第二章 統治方針の確立と日本復帰運動――49年後半~52年4月
第三章 暗黒時代の闘い――52年4月~56年6月
第四章 島ぐるみ闘争の展開とその内実――56年6月~58年後半
第五章 相対的安定期と思想的変容――58年後半~62年1月
第六章 自治権拡大問題と政治的再編――62年2月~64年後半
第七章 ベトナム戦争拡大のなかで――64年後半~67年2月
第八章 日米軍事同盟の再編と大衆闘争――67年2月~69年2月
第九章 支配体制移行期の思想――69年2月~72年5月
■引用■序章 時期区分について
「2・4ゼネストへと登りつめて行くが、その挫折によって終止符を打たれる。復帰運動に集約された大衆運動は、ここに一つのサイクルを終えるのである。」(3)

「日本政府は、沖縄「返還」という「国民的願望」を先どりしつつ、日米軍事同盟再編強化のための交渉に向かって、一路驀進し、ようやく72年5月15日の沖縄返還へとたどりつくのである。この間、70年12月20日のいわゆるコザ暴動、71年5月19日の沖縄返還協定粉砕ゼネストなど、2・4ゼネストの挫折を形態的あるいは思想的に克服しようとする動きが、自然発生的にあるいは組織的にあらわれたが、ついに政治の流れを変えるにはいたらなかった」(3)
●復帰運動の終焉としての1969年2・4ゼネスト、とその乗り越え

「日米軍事同盟(日米安保体制)の再編強化に反対するはずの60年安保闘争は、沖縄への公然たる核持ち込みに対決することもなく、核持ち込みに反対する住民の意思表示(立法院決議)と連帯することもできなかったのである(このことの意味は、68年のB52常駐化が、本土においても一定の反響をまきおこしたことと対比してみればいっそう明らかになる)。
 60年安保闘争を総体としてみると、新安保条約の適用地域(共同防衛地域)に沖縄を含めることは、アメリカの戦争に巻き込まれる危険を増大することになる、という段階にとどまっていて、米軍事戦略体制のカナメとしての沖縄をどうするか、米軍事支配下で苦闘する沖縄人民とどう連帯するか、という段階までは、ほとんど考え及んでいないのである。」(6)
「「本土には安保闘争があって沖縄闘争がなく、沖縄には復帰運動があって安保闘争がないという状況が存在した」といわざるをえないのである。」(7)
●60年安保闘争における「沖縄」の不在


■第一章 軍事占領初期の動向――45年4月~49年後半

1946年1月29日 GHQ「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」: 北緯30度以南の南西諸島を日本から分離する方針(11)

1946年6月 マッカーサー「沖縄諸島は、われわれの天然の国境である」発言(15)
「このマッカーサー発言で重要な点は、およそ三つに整理できる。
 第一は沖縄人は日本人ではない、という沖縄(人)観である。」(15)
「第二点は、ヤルタ協定と沖縄の筧である。[…]沖縄をアメリカが保有するかたちの講和条約を想定している。」(15)
「第三の問題点[…]日本の軍備放棄とアメリカの沖縄支配(空軍基地化)を関連づけている。」(15)

1948年5月9日 米軍政府『琉球列島における統治の主体』

●冷戦体制の形成: 日本と沖縄の分離、異なる統治(対日占領政策と沖縄占領政策)、異なる位置づけ

・政党の動き(20-21)
1947年6月 沖縄民主同盟結成(仲宗根源和を中心に)
1947年7月 沖縄人民党結成(浦崎康華、瀬長亀次郎、兼次佐一を中心に)
1947年9月 沖縄社会党結成(大宜味朝徳を中心に)
1946年3月頃 奄美大島自治同盟結成
1947年1月 奄美共産党結成(中村安太郎、林義巳らを中心に)
1949年8月 共和党(奄美、反共政党/向井文忠を中心に)

・諸政党のスローガン(21-22): ①民主化(ポツダム宣言に求める)、②占領米軍に対する協力の姿勢(解放軍規定)、③独立論的志向(人民自治政府の樹立など)

▼新里恵二「現代沖縄の歴史」『歴史評論』1957年1月号.
▼国場幸太郎「沖縄の日本復帰運動と革新政党」『思想』1962年2月号.
▼松田清『奄美大島日本復帰運動史料』奄美史研究会、1968.
▼「沖縄現代史への証言1 宮良長義と八重山民主化闘争」『新沖縄文学』26号、1974年10月.

「この時期[1950年]は、すでに朝鮮戦争を間近にひかえて、日本共産党と連合国(米)軍との関係も険悪化してきていた時期ではあった。しかし、沖縄においては、占領米軍の反共攻撃は、まだ表面化しておらず、人民党と米軍の関係も悪化してはいなかった。」(26)
●朝鮮戦争の存在

「沖縄における独立論は、どちらかといえば沖縄を中心に奄美も含めた、いわば大琉球独立論であった。[…]奄美の独立論が志向していたのは奄美人民共和国であって、琉球人民共和国ではなかった。また、日本本土におけるそれぞれの出身者の組織も、沖縄(人)連盟と奄美連盟(連合)、沖縄青年同盟と奄美青年同盟というぐあいに、別個であった。のちの復帰運動(これも奄美がはるかに先行した)も別々にすすめられた。」(27)

「これ[民主化要求、解放軍規定、独立論志向の三位一体]は何も沖縄の革新政党にかぎられたことではなかった。日本共産党や日本社会党にも、おおかれ少なかれ、共通している現象であった。」(28)
→1946年2月 第5回党大会で採択 共産党の沖縄人連盟あて「沖縄民族の独立を祝う」メッセージ
●本土革新政党の民主化要求、解放軍規定、独立論志向の三位一体の共有

「日本固有の領土である沖縄をアメリカが支配しているのは、ポツダム宣言に違反する、という見解が一般化していくのは、1951年の講和会議前後、とくにソ連が、アメリカの沖縄支配をポツダム宣言違反として批判するようになって以降のことである。」(30)
▼ポツダム宣言
▼カイロ

「沖縄人民党は、51年1月28日の拡大中央委員会で日本と連合国との講和は、世界平和の観点からみて、全面講和でなければならない、そして琉球の帰属は、琉球人民の意志によるべきである、という基本的態度を決定した。ついで、同ん年2月13日の拡大中央委員会で、帰属問題に対する具体的態度として、日本復帰の方針を決定した。」(33)
「沖縄人民党の独立論にしてからが[…]49、50年段階の瀬長亀次郎の論文にみられるような、日本との連邦制も可能的形態として含みうる自治共和国のイメージまで多様である」(41)
・米軍犯罪の増加→解放軍規定の批判→復帰路線へ
・日本政府への戦争被害の賠償金支払い要求(人民党)
●人民党の復帰路線への転換
●冷戦体制の形成→軍事化。反軍事化としての復帰路線の前景化。

▼沖縄タイムス編『沖縄の証言』

1951年10月 日本共産党第五回全国協議会「沖縄・奄美大島・小笠原諸島同胞に訴える」
「日本の国土であり、諸君が生まれ、育ち、生活している沖縄・奄美大島・小笠原諸島を祖国から切り離し、アメリカの統治に移している。[…]日本の国民は、歴史にかつてない重大な危機に直面している。この危機を克服する道は、アメリカ帝国主義者とその手先どもの日本に対する占領制度を取り除き、諸君を祖国から引き離した不正な講和条約を破棄する以外にない」(45)
●日本共産党の方針が独立論から復帰(返還)論に転換。アメリカ帝国しぃぎと日本の批判、講和条約の廃棄。

・仲吉良光の復帰論(58~): 日本との文化的一体感、皇室への敬愛


■第二章 統治方針の確立と日本復帰運動――49年後半~52年4月
・中国革命の成功(1949年10月1日中華人民共和国成立)が決定的となり、沖縄の恒久基地建設の本格化 + 日本の「軍需工場として再建」(62)→沖縄基地建設予算の計上(61)、ガリオア援助(64)
●〈冷戦体制→沖縄の軍事化〉という枠組み

・基地建設: 1949年11月末 鹿島建設、清水建設、間組、大成建設、竹中工務店、納富建業などの来沖→「沖縄ブーム」、「沖縄景気」

1950年6月 朝鮮戦争開始→「朝鮮特需」

1950年12月8日 総司令部渉外局 「琉球列島米国民政府に関する指令」(50・12指令)
「マッカーサー元帥は、[…]戦略的価値ある沖縄を含む琉球諸島に対する管理を強化する計画の下に、琉球諸島の民政長官に就任、北緯30度以南の琉球諸島の米国の民事行政に、責任と権限をもつ[…]。軍事上の安全保障を妨げない範囲で琉球諸島の一般住民の経済的、社会的福祉を増進する方針である。[…]住民は占領目的に反しない限り、言論、集会の自由その他民主主義国家の基本的自由を保障される。」(67-68)
→半永久的な軍事基地の確保を前提にした軍用地政策の開始

1945年11月 沖縄人連盟発足 → 1949年10月 沖縄連盟へ改称
「沖縄人連盟という名称が独立論的思想と結びついていたこと、この名称をきらう復帰思想の力が連盟内で大きくなってきたことを意味していた。」(75)
「50年も半ばになると[…]日本本土在住沖縄出身者の動向は、ほぼ復帰一本にまとめあげられていた。」(75)
●在本土沖縄出身者の復帰路線化。朝鮮戦争間近のタイミング。

・復帰促進期成会
「基調は、あくまで文化的復帰論であった。そればかりか、全面講和や基地反対といった政治的主張を積極的に排除しようとしていた。」(78)

「沖縄の経済的自立が困難であるという認識は、独立論者も、復帰論者も共通していた。しかし、この困難性を乗り越える道を、独立論者は、アメリカの援助に求め、復帰論者は日本復帰に求めた。このころには、すでに解放軍への幻想は完全に破れ去っていた。一時的、断片的には、一般民衆に、日本軍との異質性を感じさせることもあったアメリカ式ヒューマニズムは、横行するグロテスクな米軍犯罪の前にまったく色あせていた。民衆の基本的諸権利は剥奪されたままであり、高圧的な支配者の恣意的政策(たとえば、食料の大幅値上げ、食料配給停止事件)は民衆の反発と権利意識を強めていた。そして経済的にも、多くの民衆は窮乏状態にあった。否定的現実のなかにおかれていた民衆は、文化的復帰論を手掛かりにしながら、そこから脱却する道を、日本復帰の方向に求めつつあった。」(79)
●経済的危機=窮乏化からの乗り越えとしての①アメリカ援助、②復帰。

・差別論の後景化(80~): ①全面否定(仲吉良光)、②階級論=軍閥政府への矮小化(瀬長亀次郎)
「51年段階の復帰論者たちにとって、差別は、すでに清算ずみの過去の問題であり、もはやとるにたらない問題だったのである。」
●表面上の言説はともかくとして、人びとの何面はどうなのか。
▼瀬長・木下順二対談『朝日ジャーナル』1967年11月19日

・講和論議と沖縄
「本土における、講和論議は、全面講和、中立、軍事基地化反対、再軍備反対を中心に展開されていた。社共両党、平和問題懇談会等の主張は、すべてこの四点に含められた。領土問題、あるいは、沖縄人民との連帯の問題は、51年の前半まではほとんどとりあげられていなかった。それでも講和会議の直前になると、この問題がようやく重要視されるようになってきた。」(87)
「一方、仲吉良光たちは、日本本土と同様に沖縄にも米軍の駐留を認めることを前提にした日本復帰をとなえていた。」(87)

■第三章 暗黒時代の闘い――52年4月~56年6月
「1952年4月28日、対日平和条約の効力が発生すると、条約第三条によって規定された沖縄の地位を前提として、アンザス、米比、米韓、米台などの軍事条約網が張りめぐらされていく。」(90)
「沖縄は、個別的軍事同盟条約のカナメとしての役割を担わされたのであった」(92)

「ダレスやニクソンの沖縄無期限保有の言明を引きついで、アイゼンハワー米大統領は、54年年頭の一般教書において、「沖縄のわれわれの基地を無期限に保持するつもりである」と述べた。[…]対日平和条約第三条によって、沖縄支配を“合法化”したアメリカは、沖縄支配の目的を国策の上でも鮮明にした。」(96)
▼平和条約第三条

1951年 日本復帰促進期成会 → 1953年1月 沖縄諸島祖国復帰期成会として再建

1952年6月 日本道路会社(清水建設の下請け会社)ストライキ: 組織的労働争議のはじまり。人権的闘争的色彩の濃さ。

1953年5月 第二回メーデー 土地と利上げ絶対反対、土地収用法の即時撤廃、植民地化教育反対、琉大学長・副学長の即時罷免、軍事基地化反対、外国軍隊の即時撤退(121)

1955年1月13日~ 朝日報道(「米軍の『沖縄民政』を衝く」ほか)
反響の声「同じ血をひく日本民族が私達と手をにぎりあって闘ってくださることを信じたからです。[…]私達沖縄の人は、同じ血をひいた日本民族であるということ[…]私達ともっともっと話し合って沖縄住民の現状をくわしく知ってもらいたいこと。」(139-140)
「朝日報道は、暗黒時代の沖縄に厚くたれこめていた暗雲を切り裂いて、閉鎖された沖縄社会にさし込んだ一条の光であった。」(140)
「沖縄島民は、われわれの同胞である。」『朝日新聞』社説「沖縄民政について訴える」1955年1月14日
●朝日報道のインパクトの大きさ。同胞意識からの島ぐるみ闘争への共鳴。

▼沖縄県学生会編1954『祖国なき沖縄』


■第四章 島ぐるみ闘争の展開とその内実――56年6月~58年後半
1956年6月 プライス勧告骨子発表。市町村住民大会。第二回住民大会(6月25日、10万人@那覇、5万人@コザ)

「いまやまったく異なった状況が生み出されていたのである。島ぐるみ闘争は、プライス勧告が四原則を否定したことに対する反発であるという意味においては、たしかに土地闘争であったし、四原則はあくまで軍用地問題に関する要求であったけれども、それは、暗黒時代に抑圧されていた人民のさまざまな怒りを吸収することによって、島ぐるみ闘争たりえたのである。」(148)
「島ぐるみ闘争の爆発とともに、一挙に表面化した注目すべきスローガンは、国土防衛論、領土権防衛論である。」(148)
1956年6月14日 土地連合会総会の決議「領土権を死守する以外に道はない」(149)
1956年6月15日 沖縄教職員会緊急理事会「寸土たりとも我国土をうばわれぬよう断固とした政策を講じてほしい」(149)
四者協日本政府宛要請電「沖縄の軍用地問題は日本の領土主権を侵し全住民の死活に関する。土地を守り国土を守るために必死の決意をもって結束している日本住民の保護は、日本政府の責任たることを銘記し、強力なる対米折衝を切望す」(150)
「国土防衛論、領土権防衛論が、一挙に表面化してきたのは、この島ぐるみ闘争が、復帰思想によって支えられていたことを示していた。」(150)
●島ぐるみ闘争において、復帰運動を背景とした、国土防衛論のせり上がり。

「島ぐるみ闘争のナショナリズムは、日本本土においても、かなりの反響をよびおこした。とくに、新聞の投書などに示された一般民衆の民族的共感は、当時(旧安保体制下)の日本の状況と即応しながら、もっとも身近なところで沖縄を受けとめていた。」(153)
→▼『沖縄問題二十年』
「島ぐるみ闘争を、もっともナショナリスティックな側面からとらえたのは、共産党であった。[…]『アカハタ』号外(56年6月30日)のトップには、「国土死守、“静かなる闘争”、燃えたぎる日本民族の心」という見出しがかかげられていた。
 だが、一般民衆の民族的共感は、政治的に有効なかたちで、組織化されたわけではなかった。奇妙なことに沖縄問題は、超党派的に取り組まなければならないということが、あらゆる政党や団体に共通の前提となっていた。なぜならば、沖縄の闘争が、島ぐるみ闘争であり、超党派的なものだったからである。」(154-155)
●本土におけるナショナリスティック/民族的共感
「島ぐるみ闘争の爆発は、爆発と同時に沖縄をこえる広がりを示した。本土民衆の沖縄によせる共感は、沖縄返還(第三条破棄)要求の運動を組織化するところまでは発展させられなかったが、それでも、全国各地で沖縄問題を中心とする大衆集会が開かれ、無数の「沖縄を守る会」が誕生したことは、それまでの日本戦後史における沖縄問題の完全な欠落との対比において注目に値する。
 これは、当時の日本が、それこそ屈辱的な不平等条約である(旧)日米安保条約やそれに付属する行政協定のもとに置かれており、そうした状況に対する反発として内灘から砂川へと発展した反米基地闘争のナショナリズムが、島ぐるみ闘争のナショナリズムと接点をもっていたからであった。瀬長那覇市長に対する米軍の不当な弾圧に抗議して、総評や全労(同盟の前身)も、量的にはわずかであったが、那覇市へ救援物資を送った。[…]このような状況のなかで、日本社会党は、不平等条約改廃運動をおこすことをきめた。」(187)
●本土の反米基地闘争のナショナリズムの高揚と、島ぐるみ闘争のナショナリズムとのつながり。
●沖縄返還要求運動の組織化には至らず。
●「沖縄を守る会」の誕生
「いくつかの反米的基地闘争を経てジラードの裁判権問題にまで発展してきた本土民衆の反米感情は、持続的な沖縄闘争へと高められることなく、在日米軍の大幅削減(地上戦闘部隊の撤退)によって鎮静化させられていったし、沖縄論議の退潮とともに、「U2(米軍偵察機)などは、沖縄へでも持っていけばよい」という発言まで聞かれるようになるのである。」(191)
●〈基地の撤去→運動の鎮静化=沖縄への意識の後景化〉という機械論的記述でよいのか。水脈として流れ続けるものはないのか。

1956年7月4日 沖縄問題解決国民総決起大会、東京日比谷野外音楽堂、80団体主催
「ある部分(共産党や全学連)は、この闘争を「国土死守、日本民族独立」のための闘争としてとらえようとしていた。ある部分(社会党など)は、基地問題一般に還元していた。ある部分(自民党など)は、この闘争を経済闘争に矮小化し、そのわくに閉じ込めるためのブレーキ役としてのみ行動した。したがって、7月4日の総決起大会の主催団体によって結成された沖縄問題解決国民運動連絡会議は、状況に臨機応変の対応をすることができず、いたずらに政府に時間をかせがせる結果となった。」(155)
●左右による島ぐるみ闘争への「応答」。保守は現状維持、革新は民族主義的闘争。

195*年7月7日 日米共同コミュニケ → 土地闘争の終止符(186)

1957年6月 岸・アイゼンハワー共同声明: 日本側の自衛隊増強、米陸上戦闘部隊の日本からの撤退をふくむ在日米地上軍の大幅削減、極東軍司令部の廃止→ハワイの太平洋地区司令部の指揮下へ
「在日米地上軍の撤退も、全面的な米本国への引き揚げを意味するのではなく、機動性をもった拠点配置を意味したのであるから、その一部は“太平洋の要石である”沖縄へ移動したのである(たとえば第三海兵師団の沖縄集中)。[…]沖縄への「本土撤兵のシワ寄せ」という印象を強めることになった。」(189)



「『醜い日本人』の告発は、ほとんど批判されない。たとえ表面的にではあっても“感動”と“ザンゲの念”をもって迎え入れられている」(346-347)
「五ヵ月たらずで、この本が八版を重ねたと書いている。つまりこの本は、沖縄について書かれた書物のうちで、唯一例外的なベストセラーであった。」(350)
「告発される「本土」も、告発する「沖縄」も、まったくのっぺらぼうで無内容な存在になってしまう。彼の告発する「本土」は権力機構でもなく、国家でもなく、階級社会でもない。そうかといって異文化圏でもなく、異民族集団でもない。[…]彼の思想と反復帰論との似て非なる点は、第一に反復帰論的思想が72年返還政策への全面対決を通して反権力志向をきわめて明瞭に示している点、第二に、「本土」および「沖縄」に実態を付与し、その意味するところを追求しようとしている点にあるといえよう。」(347)
「決してそれが「告発する相手を間違えている」からではない。ひとことでいえば、「これでは“告発”になりえていない」からである。[…]民主勢力であろうと、革新勢力であろうと、批判されるべきは批判すべきであり、告発されるべきは告発すべきなのである。告発されることによって阻害されるような連帯意識などはさっさと破壊した方がいいのだ。」(349)
「本土の評論家や進歩的文化人、あるいは革新団体の指導者たちの間では、どのようなものであれ、沖縄からの「差別の告発」は無批判に受容されるのが通例である。[…]一様に「ザンゲの念」を表明し、これに暖い「理解」と「同情」をよせるのである。そうすることによって彼らは、講和論義で沖縄を欠落させ、60年安保で沖縄を欠落させてきたばかりか、政府が沖縄返還論議をかきたてるまでほとんどこれに関心をもたなかった自分たちの責任を回避しようとする。したがって、もし批判されるべきものがあるとすれば、それは沖縄への主体的かかわりをもたないままで、一億総ザンゲ式に「差別の告発」を受け入れ、これに安易でその実不遜な「理解」や「同情」を示す意識構造そのものでなければならないはずである。」(351)
「従来、復帰論は、「差別」の問題を避けて通ってきた。[…]多くの人びとは、歴史的差別をふたたび思いおこし、差別的処遇に対するうっ屈した過剰を増大させつつあった。」(353)
●差別告発の言葉が、〈権力構造を問わない復帰要求〉となってしまっており、日米両政府の沖縄返還政策と神話的な国境の移動にしかならない、という批判。一方で反復帰論は、返還政策と対決し、「本土」や「沖縄」の実態を批判的に問うことを可能にしているという批判。差別を語る言葉が体制といかなる関係をもっているのか、という問いの重要性。→①にんげん論、②反復帰論
●一方で、図式化された差別論 資本家⇔沖縄、天皇制⇔沖縄。
●理解、同情、ザンゲという「応答」の意味を構造的に読み解く必要性
●復帰運動・思想によってうっ屈してきた被差別意識。復帰へとのめりこむのではない形での差別の問い方。

▼霜田正次「沖縄県民の意識の中の日本像」中野好夫編『沖縄問題を考える』1967
▼金城雅篤・西里喜行「「沖縄歴史」研究の現状と問題点」『歴史学研究』1970年2月
▼岡本恵徳「〈差別〉の問題を通して考える沖縄――副読本〈にんげん〉をめぐる問題」『教育評論』1971年6月

・解放読本『にんげん』(354~)
全国開放教育研究会『にんげん』で沖縄問題をとりあげようとする
 →『醜い日本人』の一部を中学生むきに書き直して収録する予定
 →沖縄県人会関係者と著者から断り
 →沖縄を訪問した中学生と教師との書簡という形式に決定
大阪府教育委員会が同和教育副読本として認定
大阪沖縄県人会の有力者が反対

・『醜い日本人』のベストセラー化と『にんげん』批判
「矛盾した行為」(岡本恵徳)
「二つの行為の間に矛盾はない」(355)
「なぜならば、『醜い日本人』がその熱烈な支持者に与えたものは一種のカタルシスにすぎなかったし、[…]「沖縄が、そして沖縄県民のみが、法制度的に本土他府県人とは差別されている事実を」問題にしていたからである。」(355)

▼大坂沖縄県人会連合会会長名のパンフレット『沖縄県人は訴える』
沖縄差別: 制度的差別
部落差別: 心情的差別

「問題は[…]沖縄差別を告発する多くの人びとの「差別」に対する姿勢なのである。」(356)

▼屋良朝苗 1970年10月22日付 大阪府教育委員会宛 「解放教育研究会編『にんげん』(中学生用)に掲載予定の『沖縄と差別』の項削除方について(要請)」(356)
・沖縄問題と部落解放問題は、種類や質がまったく別
・本土沖縄県人、大坂沖縄県人会、沖縄出身教職員からの反対意見

1971年1月23日 沖縄選出国会議員団(沖縄議員クラブ) 大阪府教育庁への使用禁止申し入れ(357)
・部落差別と異なる
・沖縄を部落や朝鮮人みたいなイメージを与える

大阪府教育委員会『にんげん』採用決定
→一部の沖縄出身者、大阪沖縄県人会の一部のメンバーによる働きかけ

・奄美出身者に対する差別(358~)
「無権利状態から一歩一歩民主的諸権利を獲得してきたとされる沖縄の大衆運動が、制度的差別下の最下層部分を無視してきたこと、沖縄差別を声高に告発する人びとが、二重差別下にある人たちの存在をおおいかくしてきたことが痛烈に指摘されるのである。」(363)

「少数者としての自己に徹し切って、差別を告発するという立場に立ちえたならば、自らの内にかかえる在沖奄美人の問題や部落問題、在日朝鮮人問題などとの関連性を追求する視角をもちえたであろう。しかし、自らに対する差別のみを多数差別者に訴え、その理解と同情を求めて問題を解決しようとするかぎり、部落問題や在日朝鮮人問題との関連性がかすんでくるばかりか、自らの内にかかえる在沖奄美出身者の問題などは意識的に隠蔽せざるをえなくなる。[…]「差別を告発し、その償いを求める復帰思想」は[…]決して解放ののろしとなりうるような質をもつものではなかった」(367-368)
●差別の構造理解の欠落?線引きがどのような構造のもとで、自ら以外の誰に対して行われているのか、という問いの欠落。
●『沖縄差別』グループの検討の必要性

・在沖奄美連合会による公民権獲得運動
・永住許可問題 cf. 入国管理・出入国管理法案問題との同時代性

▼泉有平「一万人は泣いている=奄美籍者の原稿処遇について」『月刊沖縄』1962年6月号

▼『新沖縄文学』「70年・沖縄の潮流」

・本土と沖縄とのズレ(370~)

「佐藤訪米が近づくにつれて、[…]軍事同盟の再編強化には反対だが、沖縄返還交渉には反対できない(それは沖縄に差別を押しつける本土エゴイズムにつながる)という国民的合意が確立していった。そしてこの国民的合意からはみ出した部分は、街頭闘争の強化によってその劣勢をおぎなおうとした。10・8羽田闘争のときにくらべれば、彼らの勢力は比較にならないほど増大していたけれども、権力の側の暴力的対応も、67年10月~11月とはくらべものにならないほど整備されていた。そして、国民的合意からはみ出した部分(ベ平連などの非暴力的部分も含めて)に対しては、権力の側のためらうことのない弾圧が加えられた。」(371)
「佐藤訪米阻止闘争は、とくに本土においては、突出した部分の街頭闘争として孤立化させられたがゆえにその正しさにもかかわらず敗北した。佐藤訪米阻止闘争の敗北は、2・4ゼネスト挫折の全日本的拡大であった。」(372)
●〈軍事同盟の再編強化〉と〈復帰〉を切り離す「国民的合意」が、日米両政府によってつくられていく。復帰思想・運動が骨抜きにされ、体制にとって無害なものとして吸収されていった歴史。国家の後景化。〈軍事同盟の再編強化〉と〈復帰〉とを切り離すために、差別者/差別意識が動員されているという皮肉な事態。
●〈軍事同盟の再編強化〉と〈復帰〉をつなげる運動/思想: 2・4ゼネストの乗り越えと街頭闘争。国家による暴力的な弾圧・鎮圧。国家の前景化=反復帰論的思想。
*作成:大野 光明
UP: 20120806




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