新城郁夫「沖縄・否定性を突きつめる」より

「沖縄・否定性を突きつめる」
政治的な主体を創るために立ち止まりながら激しく動く

新 城 郁 夫
しんじょう・いくお=1967年生まれ。
琉球大学法文学部准教授。
沖縄文学・日本近代文学専攻。
著書に『沖縄文学という企て』『到来する沖縄』など。 

図書新聞090321号に「新城郁夫氏に聞く『沖縄・問いを立てる』全6巻完結によせて」が巻頭インタビューとして1~3面にわたって掲載された。 
「シリーズ『沖縄・問いを立てる』全6巻が完結した。沖縄が直面する現実に介入しつつ、沖縄研究の構想力を問い直し、応答する気鋭の研究者たちの論考が収録されている。シリーズ第3巻『攪乱する島――ジェンダー的視点』編者の新城郁夫氏に、本シリーズのテーマと沖縄研究の現在をめぐって話をうかがった。(2月9日、東京・池袋にて/聞き手・米田綱路〔本紙編集〕)」というリードが付され、<シリーズ「沖縄・問いを立てる」全6巻/第1巻 屋嘉比収・近藤健一郎・新城郁夫・藤澤健一・鳥山淳編『沖縄に向き合う――まなざしと方法』/第2巻 近藤健一郎編『方言札――ことばと身体』/第3巻 新城郁夫編『攪乱する島――ジェンダー的視点』/第4巻 屋嘉比収編『友軍とガマ――沖縄戦の記憶』/第5巻 鳥山淳編『イモとハダシ――占領と現在』/第6巻 藤澤健一編『反復帰と反国家――「お国は?」』社会評論社2008>が紹介されている。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~whoyou/shijoikuo090321.htm

これから来たるべきものとしての沖縄


 ――いまのお話は、危機感から生まれた沖縄研究の今後の展望ともつながります。

新城 そのことに関して、今是非お話ししておきたいのは、沖縄研究の今後を考える上で、琉球大学という機構が大きな問題として浮上してきているということです。
たとえば、琉大事件という出来事がありました。
1957年に起きた第二次琉大事件(文芸雑誌『琉球大学』の反米性そして同人たちの反米活動を理由に6人の学生が退学処分、1人が謹慎処分)に関しては、粘り強い批判もあり、一昨年つまり50年を経て琉球大学は謝罪しました。

でも、それ以前の1953年には第一次琉大事件がおきています。
学生たちが原爆展を行ない、灯火管制のなか灯りを点したことに対して大学が謹慎処分を言い渡し、そのことをメーデー集会で訴えた学生達を今度は退学処分にしているんです。
この処分に、米軍が関与していたことは明白ですが、そのことを措いても琉球大学がみずから手を下した重大な人権侵害事件です。
その第一次琉大事件について、現在に至るまで琉球大学は「外圧を示す資料がない」と謝罪を拒否していますが、それこそ転倒した話で、大学が自主的に処分したのならば、その方が大問題です。
つまり、沖縄研究の拠点である琉球大学において沖縄の歴史が否認され、米軍との共犯関係が継続されているのです。
 
 それから、いま非常に問題になっているのは、琉球大学の非常勤講師の切り捨てです。非常勤のユニオンがあって、学生達の署名を含め6000人近い反対署名を集めて大学に提出しましたが、大学は切り捨てを強行しようとしています。国の文部行政の出先機関として、琉球大学は率先して沖縄社会のネオリベ化を進めているとさえ言えます。
 

  琉球大学には、琉大事件で人を処分した歴史があります。
この過去の処分といまの処分問題が、まさに沖縄の学問に問いを突きつけています。
占領下で行なわれた処分を謝罪しきれない状況と、ネオリベ的な人間の処分が、いま琉球大学という場で折り重ねられている。
沖縄研究に関わる一人一人が、この問題を座視してはいけないと思います。
 
 沖縄研究が学問のもつ社会性を認識し、沖縄研究に政治的介入の自由があることを、もう一度確認していくべきです。
このシリーズ「沖縄・問いを立てる」に収められた多くの論が、卓越した批評性においてそのことを訴えています。
我々は、ゲリラ的にさまざまな問いを発して、メイキング・トラブルを積極的に実践していくことがとても大事です。