「敗戦直後の沖縄の政党と独立論」より

上原清治で検索したら
下記のblogがヒットした

沖縄自治研究会
http://plaza.rakuten.co.jp/jichiken/

敗戦直後の沖縄の政党と独立論
http://plaza.rakuten.co.jp/jichiken/8013/

その中から、上原清治さんに関する部分だけ、書き出しておく。



新崎盛輝先生も、いわゆるその当時の沖縄人民党は、これは間違いなく独立を志向したいただろうということを、『戦後沖縄史』の中で「戦後、人民党のいう全沖縄民族の解放は明らかに独立的志向を示していると言えよう。特にうるま新報や、実質的な人民党の機関誌『人民文化』に掲載された瀬長亀次郎の論文では、1949年から1950年の段階においてなお一貫して全沖縄(琉球)民族の解放、それから沖縄民族(琉球)の主権の確立、解放軍としての米軍に協力した民主沖縄の建設、人民自治政府の樹立、沖縄の基本法をつくる憲法会議の招集が強調されている」と述べていますね。。

 解放軍としての米軍に協力しつつ樹立される人民自治政府と、そこから展望される全沖縄民族の解放のイメージが独立論であることはほぼ間違いないであろうというふうに、新崎先生は断定して、人民党は独立を志向した政党だというふうに捉えております。

 しかし、これに対して共産党の上原清治さんは、日本共産党第5回大会で採択した沖縄民族の独立、メッセージなどの影響が全くなかったとは言えないが、自主憲法の制定そのものが独立を意味するものではなかった。ポツダム宣言の完全実施が目標であった。日本共産党は60年の歴史の中で、第5回大会の方針を誤っていたとしている。独立の明確な形態をとっていたかというとそうではない。はっきり独立とするとの表現もない。それからすると、実は新崎さんが言っているのは違うんじゃないかということで反論している。


報告1『敗戦直後の沖縄の政党と独立論』     
日時 平成16年7月10日沖縄国際大学法学部助教授 照屋 寛之 

○司会(江上能義)  それでは沖縄国際大学の照屋さん、50分ほどお話をお願いします。

○照屋寛之  ただいま御紹介にあずかりました沖縄国際大学の照屋でございます。今日は小結の照屋と横綱の上原先生ということで、私の話は少々聞き流してもいいんじゃないかなと思いますね。
 私の方はいろいろな本から読んだのを伝えるぐらいで、特別に中身のある話はできないんじゃないかなと思います。いかんせん、非常に短期間でまとめた内容ですから、そんなに目新しいのも出てこないんじゃないかなという感じがいたします。あらかじめご了承ください。
 私は、最初この課題を与えられたときに、独立論ということだけが頭の中に入っていたもんですから、新沖縄文学の53号だったか48号だったか忘れましたけれども、「独立論の系譜」というのがありまして、その中ですぐに私の目についたのが沖縄民主党と琉球国民党だったんですね。 ところが、私は最初その二つを中心に興味深く読んでいたんです。ぐいぐいと引き付けられるものがありました。しかし、よくよく考えてみると、今日の私に与えられたテーマは、「敗戦直後の沖縄の政党と独立論」となっていることに気づきまして、また大急ぎ敗戦直後の幾つかの政党を調べてみたわけなんですね。
 ところが、やはり沖縄の独立論を語るときには、どうしても沖縄民主同盟の仲宗根源和、それから琉球国民党の大宜味朝徳が非常に大きなウエイトを占めているんじゃないかなと思うんですね。この2人を語らずしては沖縄の独立論は語れないと言っても過言ではないかと思います。 ところが、私に与えられたテーマは敗戦直後のということで、沖縄民主同盟については、後ほど実際にその設立にかかわった上原さんの方から、非常に興味深いお話が拝聴できるかと思います。
 私が今回、敗戦直後の琉球独立論について少し本を読んでみて非常に感じたのは、やはり敗戦直後の沖縄というのは、そういう面で食うや食わずの非常に苦しい生活の中であったけれども、自治意識、自立意識というのは非常に高かったのかなと思いました。俗に言う、痩せたソクラテスがたくさんいたような感じがしますね。政党活動というのも、本当に手弁当でやっていたわけですね。沖縄のために立ち上がって活動するその姿には感動させられますね。大宜味朝徳も自分の私財をなげうって琉球独立に一生懸命やったということでは、読んでいて勇気が与えられるというか、何か教えられるような感じがいたしました。
 ただ、大宜味朝徳の場合は、後ほど出てくるときにいろいろとお話ししますが、なかなか大衆がついてこなかったということで、非常に情熱を傾けた割にはうまく実を結ばなかったところもあるような感じがいたしました。
 それで、つくづく思うんですけれども、沖縄は歴史的にも、地理的にも、独立論が台頭しやすい土壌があるのかな、という感じを今回この独立論関係の論文などを読みながら感じたんですが、まず1609年に薩摩の侵攻、それから1879年に日本による併合、1945年は米軍統治下、それから1970年の復帰というようなことで、沖縄がこのような歴史的な体験を不本意にもしなければならなかった。それ以外に、今度はもっと大きいのは差別の歴史的な体験というのが、非常にこの独立論の根底の中にあるのではないかと思います。もし差別ということがなかったならば、こんなに独立論というのは底流をなして脈々と今日まで受け継がれることはなかったのではないかなというふうな感じもするんですね。これまでの沖縄の政治、社会の節目節目に必ず独立を掲げた人たちが登場して来るのはこのような背景があるのではないかという感じがいたします。
 これからすると、琉球独立論は戦後、終戦直後はもちろんのこと、我々のまだ記憶に新しい復帰前後においても、独立論が唱えられたわけですね。ですから、絶えず県民のどこかで脈打っていたような感じがするわけですね。このようなことは他府県ではまったく考えられないことです。
 そして、復帰をして、これで独立論というのがなくなったかというと、必ずしもそうではない。もうあれこれ10年前ぐらいに出た大山朝常さんの独立の本の中でも、私は「ヤマトは帰るべき祖国ではなかったのかな」というふうな件があったのを覚えているわけですが、そういうことで沖縄というのは、そういう独立論というのが今日まで受け継がれているわけですね。
 そういうことで、我々がこれまでの独立論の系譜をたどってみるということは、沖縄の自治・自立を考える上でも大切なことだと思います。 それではこれから、レジュメに沿って沖縄における敗戦直後の政党のところから入っていきたいと思います。敗戦直後に沖縄の政党は、まずこれは奄美、沖縄、宮古、八重山の各群島をそれぞれの活動領域としてこれは結成されていくわけですが、米軍初期の占領政策が各群島単位に軍政府をつくって統治するという方針であったことから、その与えられた政治空間を一つの活動領域として、各群島単位で沖縄は政党というのが誕生したと言われています。
 皆さんにお配りしました資料におつけしましたけれども、沖縄における政党の流れというのがあります。その中で、まず最初にできたのが1947年6月15日の沖縄民主同盟ですね。それから一番左側にある沖縄人民党、それからまた右上にあります沖縄社会党。それで沖縄社会党は琉球社会党と合流しまして社会党となっていくわけですね。
 それから、宮古群島、八重山群島においても、それぞれ政党というのが組織され、宮古民主党、それから宮古社会党と宮古青年党とか、あるいは八重山民主党、八重山人民党というふうな形で、それぞれの群島において政党というのが結成されていったと言われるわけですね。
 そしてまた、ただこれらの政党というのは、下部の党員組織を持たない少数特定の政治家集団に過ぎなかったし、一般大衆の中に根を下ろす大衆政党にはほど遠いものでした。このことは、後ほどお話しします大宜味朝徳の琉球国民党もまさしくそういうふうな政党であったわけです。
 なぜこのように政党というのがどんどん結成されていったのか、その背景あるいは契機になるものは何かということを考えてみますと、やはりこれは占領下の中でのことをどうしても指摘しなければならないだろうと思います。ただ、この占領下においても、本土と沖縄では相当違っていたわけです。本土においては、非常に民主的な形で占領政策が行われていた。徳田球一とか、あるいは志賀義雄ですか、その人たちも民主化政策の中で解放されていったというふうなことを述べているわけです。
 ところが、沖縄においては非常に事情が違っていた。米軍当局は、沖縄に対しては非民主的な扱いをしていたのではないかなということが言われるわけですね。特に占領開始から3年も過ぎた時点での米軍政府の沖縄占領政策が本土と全く違っていた。米軍はたとえ民主主義の理念を語ることはあっても、それを実行しようとはしなかった。むしろ逆に軍政下において、民主主義的な制約を受けざるを得ないことということを軍政府は、強調することを忘れなかったわけですね
 ご存知のように、琉球列島における統治の主体の中で軍政府が琉球列島を統治する限り恒久的民主政府も完全なるデモクラシーも確立することは出来なかったわけです。ただ、琉球列島を統治するに際して、軍政府は実行し得る限りにおいて民主主義の原則を用いてはいると言っているんですね。しかし、「ネコ・ネズミ論」で形容されているように、軍政府がネコで沖縄はネズミであり、ネコの許す範囲でしかネズミは遊べないというわけです。つまり米軍が許す範囲での民主主義であった。講和条約が成立するまでは民衆の声は認めないし、またあり得るべきもなかった。講和会議の済むまではアメリカ軍政府の権力は絶対的なものであった。
 このような政治的、社会的状況の中で、沖縄の政党は結成されたわけです。つまり、このようなアメリカ軍政府のやり方に対する不満や批判が起こったのは当然であり、その批判の中から、また本土で民主化の洗礼を受けて帰ってきた人たちの刺激もあって、民衆の声を政治に反映させるために、先ほど述べましたような1947年から沖縄民主同盟、あるいは社会党とかいろいろな政党が誕生していったわけなんですね。
 そしてまた、これの政党に共通する三つの要素というのがあったんですね。  第1番目の共通要素は、これらの政党がすべて民主化を最大のスローガンとしていたこと。 2番目が、占領政策に対する協力の姿勢。これは、後ほど反米政党としての立場を固めていく人民党の場合もそういう面では占領政策には協力的な部分があるわけですね。そういうふうな、やはりこれは米軍統治下にあるということと非常に関係するわけで、その政党の共通点の中にその協力の姿勢があったということは、非常に注目すべきではないかなと思いますね。これは後ほど細かく見る政党の中に出てまいります。 それから三つ目の共通点としては、独立論を唱えていたということが沖縄の政党の特徴であった。ですから、政党というよりも琉球独立論の方が非常に大きく出てくるような感じがするんですね。独立論は見えるけれども、極端に言ったら政党の姿が見えてこないというふうな感じがするわけですね。
 それでは具体的に敗戦直後の沖縄の政党を見てみたいんですが、まず人民党。1947年7月20日に結党されたが、琉球独立論を唱えていたかどうか非常に賛否が分かれているんですね。沖縄人民党の初期の性格が右や左の思想の集まりだったこと。我々は、普通、人民党と言いますと、どうしてもこれは極端な左だというイメージがあるわけですけれども、ところが当時における人民党は必ずしもそうではなかった。右も左も集まっていたということが言われるわけなんですね。そもそも沖縄人民党が産声を上げる背景となったのが「うるま新報」なんですけれども、当初は完全にこれは民政府の御用新聞と言われていたそうなんですね。ですから、それからしても、非常に右も左も集まった政党だったのかなという感じがいたします。そして、その政党の場合、第一に米軍の位置づけ、それから沖縄の独立を志向していたんではないかということが、これは非常に注目されたわけなんです。
 その沖縄人民党は沖縄の将来について、その結党の際の政策の冒頭、人民政府の樹立を掲げており、これは沖縄の独立を志向したものと考えることができる。これがやはり人民党のこの部分が独立論との関係で非常に指摘されるわけです。このことは。沖縄人民党の歴史の中での綱領などを見てみますと、やはりこの言葉がまず沖縄人民党綱領の中でも掲げられています。綱領は政治、経済、社会、それから文化という面で分かれておりますが、政治の面でもすぐ真っ先に出てくるのが「人民自治政府の樹立」ということをうたっているんですね。
 それから、スローガンを11あげておりますが、やはりその中に最初に出てくるのが沖縄人民政府の樹立です。それから沖縄人民党が、これは沖縄民政府への陳情書を出すわけですけれども、その陳情が13項目あるけれども、すぐ真っ先に上がってくるのが、沖縄人民自治政府の樹立です。そういうことで、随所にその沖縄人民党はその人民政府の樹立というのを掲げているわけですね。それからするとやはり沖縄人民党は、独立論を非常に主張していたと言われるのではないかなと思いますね。
 儀部景俊・安仁屋正昭・来間泰男共著『戦後沖縄に歴史』の中で「人民党の目的は綱領を見て注意を引くのは、日本復帰の要求がうたわれていないということです」と述べられているように、どこを見てもその言葉は出てこないわけですね。後ほど日本復帰を唱えるわけですけれども、その当時においては、どこを見ても日本復帰という言葉は出てこなかったわけです。その目的には、「沖縄人民の解放」と書かれています。これは、民主化を主張する文章の流れの中で述べたものであることだが、沖縄の独立の要求を積極的に示しているわけではありませんが、本土の民主勢力の中に沖縄少数民族論イコール独立論の影響があったことは伺えます。また、当時、日本復帰が禁句とされていた社会情勢にもよるものと言得るのではないかと思うわけです。その当時の社会情勢の中では、「復帰」はなかなか叫ばれないから、そうふうにしたのかなというふうなことも言われているわけなんですね。
 それからまた、新崎盛輝先生も、いわゆるその当時の沖縄人民党は、これは間違いなく独立を志向したいただろうということを、『戦後沖縄史』の中で「戦後、人民党のいう全沖縄民族の解放は明らかに独立的志向を示していると言えよう。特にうるま新報や、実質的な人民党の機関誌『人民文化』に掲載された瀬長亀次郎の論文では、1949年から1950年の段階においてなお一貫して全沖縄(琉球)民族の解放、それから沖縄民族(琉球)の主権の確立、解放軍としての米軍に協力した民主沖縄の建設、人民自治政府の樹立、沖縄の基本法をつくる憲法会議の招集が強調されている」と述べていますね。。
 解放軍としての米軍に協力しつつ樹立される人民自治政府と、そこから展望される全沖縄民族の解放のイメージが独立論であることはほぼ間違いないであろうというふうに、新崎先生は断定して、人民党は独立を志向した政党だというふうに捉えております。
 しかし、これに対して共産党の上原清治さんは、日本共産党第5回大会で採択した沖縄民族の独立、メッセージなどの影響が全くなかったとは言えないが、自主憲法の制定そのものが独立を意味するものではなかった。ポツダム宣言の完全実施が目標であった。日本共産党は60年の歴史の中で、第5回大会の方針を誤っていたとしている。独立の明確な形態をとっていたかというとそうではない。はっきり独立とするとの表現もない。それからすると、実は新崎さんが言っているのは違うんじゃないかということで反論している。
 それからまた比嘉幹郎先生は、「政党の結成と性格」という論文の中でこう述べております。「将来の沖縄の国際的地位については、この時期にはまだ明確に党の立場を表明していない。確かに沖縄人民党は、全沖縄民族の解放とか人民自治政府の樹立など独立志向を示唆するような語句を使ってはいるものの、独立主張の決め手になる用語は見あたらず、むしろ意図的に弾力的な解釈ができる語句を用いていたようである。同党の立場は必ずしも明確ではない」として、その独立論に対しては断言できないだろうというふうなことを述べているわけですね。
 ですから、その先ほど申しました人民政府の樹立、それから沖縄の基本法をつくる憲法制定会議の招集などをどのように解釈するかで、これは沖縄人民党が独立を志向していたかどうかの解釈にも大きく影響するし、これを積極的に解釈すれば、確かにこれは「人民政府の樹立」と言っているわけですから、政府を樹立するということは独立というふうに捉えるならば、これは独立志向であっただろうということになるわけです。
 それから、沖縄の基本法をつくる憲法会議の招集もそうです。憲法をつくために会議を開くというふうな解釈をしますと、これもやはり独立志向であったというふうに理解することもできるのかなという感じはいたします。
 ただ、消極的に解釈すれば、比嘉先生が言っているように、明確にそういう言葉は使ってないから、これを断定することはできないんじゃないかなというふうな捉え方がこれまたできるわけですね。このように沖縄人民党が果たして独立を志向していたかどうか、立場によって見方が違っているというふうなことになるのではないかなと思うんですね。ところが、沖縄人民党も時代の流れの中では復帰を主張していくようになっていくわけなんですね。
 それから次に、沖縄独立論、琉球独立論との関係では社会党について話さなければなりません。琉球社会党と沖縄社会党が合流して社会党になるわけですが、これ1947年9月10日に、大宜味朝徳を中心に沖縄社会党が結成されます。この政党は、また兼島信栄を党首とする琉球社会党と同年10月20日に合流します。ですから、そういう面では非常にこの沖縄社会党、琉球社会党というのは短命の政党であった。特に琉球社会党というのは1週間ぐらいしか存在しておりません。
 その社会党について述べる前に、沖縄社会党、琉球社会党はどのような政党だったかを社会党を理解するために、ちょっと駆け足で少し紹介しておきたいと思います。その大宜味朝徳が沖縄社会党を結成し自らが党首におさまる。沖縄社会党は戦後初めてアメリカの信託統治を主張したのが特徴で、その考えは後に琉球国民党、後ほど琉球国民党を立ち上げますが、琉球国民党を立ち上げて独立を主張することに結びついていくわけですね。
 ところが、当時、既に住民の間では大宜味の訴える独立よりも、どっちかというと祖国復帰の願望が除々に強くなっていったんですね。ですから、大宜味が反日感情を示してアメリカの支持のもとでの新琉球の建設を目指すと主張しても、住民にはなかなか受け入れられなかったであろうと言われているわけですね。大宜味のねらいとするところは、沖縄を米国の信託統治のもとで独立させることであった。帰属問題には触れなかった当時の政党の中で、沖縄の将来像を公然と表明した唯一の政党であったということは、非常に注目に値するのではないでしょうか。
 ところが、政党の名を有していたものの、これは先ほどから申し上げておりますように、党首大宜味朝徳の個性と言いますか、パーソナリティーと言いますか、非常にワンマン的な政党ですね。この沖縄社会党はこれといった有力な党員がいたわけでもなく、したがって政治的、社会的影響力はほとんどなく、国民の支持を得ることなく40日間でこれは消えていくわけなんですね。
 それから次に結成されたのが琉球社会党なんですけれども、この政党は沖縄の戦後初期政党の中に政党の名をとどめているものの、先ほど申しましたように存在したのはたった1週間で、結局は党則とか綱領だとか党員など、具体的なことは何も明らかにされておりません。
 この政党は10月20日には、先ほど言いましたように、大宜味朝徳の沖縄社会党と合流して社会党となっていくわけなんですね。両党とも信託統治を主張する点が政策面での一致点であったと言われております。
 そして、合流によって誕生した社会党ですけれども、その社会党が帰属問題をどう考えていたかを、これもまた比嘉幹郎先生の論文を引用したいと思います。「帰属問題に関して社会党は、『国家体制の整備』や『琉球憲法の制定』を基本政策として掲げ、また同党政務調査会の決議事項のなかには、米国信託統治の支持、防共強化対策、外資導入歓迎などが含まれていたと言われている。さらに、対日講話条約の素案が検討されていた頃出された大宜味の著書によれば、他の政党との政策面における根本的な相違点は、社会党が『琉球民族の幸福は米国帰属にありと確信しハワイ州の沖縄県実現を要望し政治経済文化各面の米国化』を主張していたことであるという。要するに、社会党は、民主的な琉球独立国の樹立を究極的な目標として結成された政党だったといえよう。同党は、沖縄の将来に関する政策を公然と表明した最初の政党であった。」と述べられております。
 ところが、この社会党もこれまた短命なんですね。たった3年で、1950年頃には完全にこれは大宜味党的な政党になってしまいます。先ほど述べましたように、大宜味朝徳は非常にワンマンだったそうですね。どうしてもその政党の中でワンマン的な政党運営をしていたんですね。この社会党は落ち目になっていくわけなんですが、その落ち目になっていた社会党は、1952年の参議院選挙にたった1人しか擁立しなかったものの落選し、1950年の4月7日はついに解散に追い込まれるわけですね。 しかし、大宜味朝徳の琉球独立論を絶えることはなかったんですね。1958年、今度は、大宜味朝徳は、琉球国民党を結成して、また独立を掲げた政党として活躍していきます。
 それから次に共和党と琉球独立論の関係を少し述べてみたいと思うんですが、この共和党は、琉球は巌として琉球のものなりとして琉球の独立を政策にうたうと同時に、親米的な性格を備えた政党であった。先ほど沖縄の政党はアメリカに協力的であるということで、非常に親米的なんですけれども、この共和党も漏れなく親米的であったわけですね。沖縄の政党の名称には共和党、民主党などいろいろありますが、恐らくこの共和党という名称も、結局はアメリカへの親米的な要素のあらわれかなという感じもいたしますね。要するに、アメリカの政党には共和党と民主党があるわけですから、そういう面で米軍統治下にあった沖縄の政党も、共和党とか民主党とつけたらアメリカの機嫌、アメリカが好意的に見るのかなと、あるいは、アメリカに協力的と見られるのかなと、考えていたのではないでしょうか。
 沖縄民主同盟が衰退していって、その中心的な人物であった仲宗根源和などが中心となって共和党が結成されるわけですが、そのへんの経緯を少し述べてみます。その沖縄群島知事選挙に松岡政保を擁立した沖縄民主同盟はすっかり意気消沈した。知事選挙より1週間後に行われた群島議会議員選挙でも、民主同盟は敗北した。知事群島議会選挙の敗北は、沖縄民主同盟の解党を意味していた。こうした状況で、群島議員に当選した保守派の4人が結束して新党結成に動き出した。その結果、1950年10月28日に誕生したのが共和党である。共和党の結成では、仲宗根源和、桑江朝幸ら民主党の主要メンバーは共和党に駆けつけた。仲宗根源和が加わったことで、共和党の性格は大きく変わっていきます。結党した議員4人は、当初、占領下だから米軍に盾突くより協力して物資をもらった方が沖縄の復興を早くすると考えていた。これは親米的なんですね。 だが仲宗根は、民主同盟時代から琉球独立論を主張していた。したがって党の考え方も次第に独立論へと傾いていった。ですから、その党の路線に仲宗根が非常に大きな影響を与えたと考えられます。
 新里銀三、この方も4人組の中の1人ですが、新里銀三は、「私らは、占領下で布告、布令が出ており、どうせ米軍のいいなりだったら、米軍から物をもらった方が得策だ」と主張した。しかし仲宗根源和は独立論をぶち上げ、結局、仲宗根に押し切られてしまった。復興するまで占領政策に従った方がいいと思ったので、仲宗根とは別行動にしようと考えた」と述べているわけですね。
 このように、共和党の路線には大きく二つあった。一つの政党の中ですけれども、仲宗根はどうしても独立論を主張した。ところが、結党の中心的な役割を果した新里銀三らは、米軍に従っていた方が得策だろうというふうな考えだったんですね。
 そして、このようにして共和党は路線問題、意思統一ができなかった。民主同盟から移ってきた仲宗根は、組織部長として独立を主張した。仲宗根は、「アメリカは自由主義が行き過ぎて戦争に勝って自信過剰になって気にくわん」と語り、独立を説いた。これに対して松岡政保は、「独立は夢物語だ。独立すると、大学も裁判所も自分でつくらなければならないのに金はない。そんなことができるはずがない」と、松岡は反対したそうなんですね。
 それで、私はゆっくり読む時間なかったんですけれども、『琉球経済』、これは1951年6月1日のものですけれども、その特集が琉球帰属論だったんですね。そして、時間がなくて細かくは読んでないんですが、その中で「琉球独立論」(仲宗根源和)、「なぜ?独立を主張するか」(桑江朝幸)、「独立国琉球の再現を期す」(兼島信助)、「帰属問題の一考察」(大庭政慶)、「日本帰属は何を意味するか」(池宮城秀意)、「日本復帰は悲劇の再現」(大宜味朝徳)等等、貴重な論考が収録されている。
 仲宗根源和の「琉球独立論」は、序論と本論からなっておりますが、その中で序論の部分に興味深いところがあったんですね。「琉球の帰属問題は、私ども琉球民族が運命の岐路に立って、いずれの途が繁栄と幸福と自由と平和に通じる明るい途であるかを選択する重大な問題であることは申すまでもありませんが、多くの人の中には、はじめから、日本復帰希望で満腹していて、独立論の趣旨を聞こうともしない人々があります。その態度ははなはだ危険であり、非理知的であります。ご本人のためにも、またその人自身の子孫のためにもよくない態度であります。私どもは、民族の運命を決するためにも、自分自身のためにも、そしてまた私どもの子供のためにも、この問題はあらゆる角度から十分に冷静に各種の議論を比較検討することが最も必要であります。
 これから私は、琉球は民主主義共和国として独立し、自由主義国家軍の一員として国連に参加すべきであるという琉球独立論を提出をしたいと考えます」と。
 それから、琉球独立論について次のように述べております。「『出来たらそれに越したことはないが経済的に駄目じゃないですか』と言う人が多い。私は、そんなときにこう答えています。『独立してこそ経済的にも豊かになれるのです。初めから経済的に駄目だとあきらめてしまって、我々は子孫代々他人の食卓からこぼれ落ちるパンくずを拾うというのですか。とんでもない話ではありませんか。自らの手で働いて求めたパンを自らの食卓に乗せて、朗らかに食事をする民族になろうではありませんか。然も我々は過去においてそれを為し得た民族でありませんか。この意気を失って日本に頼ろうとしたら日本の荷厄介になり、アメリカに頼ろうとしたらアメリカの荷物になるだけです。誰もよけいな荷物は担ぎたくないでしょう。』日本復帰論者の中には、『独立するのも悪くはないが、経済的にはどうせ自立は出来ないから日本と一緒になってその不足を援助してもらうほうがよいと思うという』人がおりますが、かかる論者に対しては『日本の政治が沖縄を貧乏にした最大の原因であったことを知らずに、逆に沖縄は日本の政府から援助でも受けていたとでも勘違いしているのでしょう。それはとんでもない間違いです。このことは、過去の史実をよく検討して判断を誤ってはいけません。それと同時に、現在の日本は米国の援助を受けている国であって、沖縄を援助する実力がないことを知っておかなければなりません。』と私は注意を喚起しています」。
 それから本論の一部だけ引用しますと、「我々は今アメリカから食料の無償配給を受け、衣類も住宅も代金を支払わずに供与を受けています。アメリカの好意に対して感謝の念を持つことは必要でありますが、決して乞食根性を起こしてはいけません。この沖縄列島の主人公は私ども沖縄人であり、アメリカは私どもの土地にヤドカリをしているのですから、我々は当然受け取るべき家賃を受け取るのだと考えるべきであって、決して卑屈な気持ちを持ってはいけません。ただわれわれ沖縄人は、アメリカ人に対して、人間同志として好意と好意、即ち善意の交際をしていくべきであります」。こういうふうなことで書かれて、なかなか興味深い内容がたくさん書かれておりますけれども、時間がないのでこのぐらいにし、残りは割愛しますが、そういうふうなことで仲宗根が琉球独立論を説いております。
 それから次に、今日の敗戦直後ということではちょっと時期的にずれますが、やはりこれは独立論を語るときに琉球国民党の大宜味朝徳を語らないといけないかなと思いまして、予定の時間も迫っておりますので、大急ぎでそこをあと5分、10分ぐらい話したいと思います。
 この大宜味朝徳は、1947年には先ほど言いました社会党、そして58年には琉球国民党の結成の主導的な人物であるわけです。常に反復帰の旗を鮮明にして政治活動を行っていたわけです。そして本人も1952年、それから60年、それから65年には立法議員選挙に立候補します。それからまた61年には那覇市長選挙にも立候補します。しかもこの政治活動費は、ほとんど大宜味自身が直接負担していた。
 このように、私財を投げ打ってまで反復帰の運動を展開した理由は一体何だろうか。これは、いろいろと大宜味のついて書かれた本や論文などを読んでみました。特に西平さんの論文「大宜味長朝徳の思想―琉球独立論を中心にー」は大変参考になりました。
 その中でも非常に細かく述べられておりますけれども、大宜味が独立論を唱える契機となったのは、やはりこれは戦前の日本政府の沖縄に対する差別的な政策だろうと思います。それが日本政府、いわゆるヤマトへの反発というのがどうも独立論の根底にあるのではないか。一般論としてはそうなんですけれども、特に大宜味の場合はそれが強かったというようなことが感じられる部分がたくさんあります。これは西平論文の中でかなり詳細に論じられております。
 結党が1958年の11月なんですが、反共産主義で、そして琉球独立を旗印にした琉球国民党が誕生しますけれども、これは党首が今の大宜味朝徳、それから副党首が喜友名嗣正です。ただ、この琉球国民党がこれまでの政党と違っているのは、沖縄においてこの大宜味朝徳がいろいろな活動をしていますけれども、副党首は台湾にいる喜友名という方が副党首におさまっているわけですね。大宜味は、喜友名のところに手紙を書いて、政党をつくるから一緒にやってくれというふうなことで誘いをかけるわけなんですね。そしてまた喜友名嗣正は、台湾において独立運動をしていた。そういう面で非常にこれ意気投合したであろうと思われます。喜友名は台湾で琉球革命同士会、この会は20~30人の沖縄出身者で組織され、沖縄の独立を目指した会であったと言われるわけなんですが、そういう組織を持って活動していた。そして、反米、反共産、反ヤマトンチュ思想の大宜味と喜友名が意気投合して、沖縄の独立という点で一致して、琉球国民党が誕生していくわけなんですが、時間がありませんので、その立党宣言とか綱領とかはもう書いておきましたので、読んでもらえますか。割愛させてください。
 一つだけちょっと述べておきたいのは、その琉球国民党の場合は、これまた琉球自衛隊の創設を、これは高等弁務官ドナルド・P・ブースに要請するわけなんですね。琉球自衛隊設立に関する要望書というのを出します。その要望書には、「世界の何れの国家においても、軍隊もしくは自衛隊を保有し国家の安全を期している。我が琉球も独立国家として健全な国民を錬成することは重要な国策であり、独立国家として自衛隊は当然必要な機関である」と主張しているわけなんですね。
 このことからしても大宜味がいかに真剣に独立国家ということを考えていたのかが分かるような気がします。要するに、自衛隊も持たなければやはりこれは独立国家と言えないだろうというふうなことで、これは高等弁務官に直訴しているわけですね。
 それから、また皆さんの資料にもおつけしたんですけれども、琉球国民党の非常に有名なのが、1958年9月17日の「琉球新報」に「琉球国民党結成について全琉球人民に訴う」という広告を出しているんですね。ちょっとこれは皆さんのお手元にお配りしたのは非常にこれ読みづらいので、前半部分だけを考えてみたいと思うんですが。
 それと、大宜味朝徳は皆さんの資料におつけしました「私の意見」という形で、よく「琉球新報」に出しているんですね。私が拾ったのは幾つかありましたけれども、その中から幾つか上げておりますけれども、そこによく投稿していたようなんですね。
 それはどうして沖縄タイムスでなかったのかなということについては、比嘉康文さんがこの前出した本の中で、やはりこの琉球独立論を唱えていた大宜味朝徳は「琉球新報」の「琉球」を非常に気に入っていたのかなということで、「琉球新報」に投稿していたのかなということをこの中で書かれているんですが、その真意はわからないんですね。
 しかし、このぐらい独立にこだわるんだったら、沖縄タイムスの英語でタイトルつけたタイムスよりはこの琉球に憧れて投稿したのかなと思います。私もこの過去の新聞を調べて、どうしてこれはずっと「琉球新報」なのかなと、「沖縄タイムス」じゃないのかなとちょっと気にはなっていたんですね。そしたら、ちょうどタイムリーにこの比嘉さんの本が出てこれを読んでいたらその話が出ておりました。これは本人に聞かないと本当はわからないですね。
 その大宜味朝徳の中で特にこの広告「琉球国民党結成に就いて全琉住民に訴う」ですね。とにかくこれは読むのが嫌になるぐらいの長ったらしい。前半部分だけを紹介しますけれども、この広告は「B円の切り替えは愈愈実施された。之は日本復帰運動に終止符を打った無言の宣言である。琉球住民はこの際、今迄の琉球の政治、経済、教育等、日本依存的考え方を是正し、自ら立ち上がって琉球の国際的進出に開眼すべき時期に来たと思う」と述べ、これまでのようなヤマト依存的な姿勢から脱却し、自主独立の道を模索すべき時期に来ていることを琉球住民に訴えたわけですね。
 そして、これまでの琉球が日本時代にいかに貧困を強いられたか、そしてその要因が日本政府からの経済的な搾取。この経済的な搾取は、これ仲宗根源和の論文でも出てきます。それから差別、この差別、非常にキーワードですね。それから政治家の先見性の欠如によるものであるとして具体的事例を挙げながら、日本を徹底的に大宜味は批判するわけです。
 まず経済的な苦難について、「戦前の琉球は『ソテツ地獄』『孤島苦の琉球』と云われ、全く文化的に取り残された島であった。県の税外収入と云えば波止場の桟橋賃だけであり、経済界は銀行、保険会社は皆日本の支店で集めた金子は日本に持っていかれ、琉球に金子が入るのは砂糖時期ぐらいのものであった。大学一つもなく、国有鉄道一里もなく、国費で負担する国道は、那覇港から県庁迄の1線であった。重税で農家の困窮は極端であった。一例を明治中頃の沖縄県の予算を見ると歳入65万5千円に対してそのうち沖縄県庁の費用は45万5千円で二十満円は日本政府へ納入されていた」。どうして歳入は65万5千円が県庁の予算は45万かと。これ大宜味は、20万円は日本政府に納入されていたということを言っているわけですね。つまり、何も日本政府から援助を受けてないじゃないかと。逆にしぼり取られているんじゃないかということを強調するわけです。
 さらに、このような日本政府の経済的搾取以外に、大宜味が日本復帰に反対した理由は、沖縄住民に対する差別的待遇であった。その琉球国民党結成についてこの広告の中でこう言ってますね。「政治の後進性から来る琉球人への差別待遇、其重圧は大きかった。沖縄出身の官吏は判任官で釘付けされ、警察官も巡査部長以上はなかなかなれなかったというのが行政上の不文律であった。――之は40歳以上の人なら皆経験している筈だ。2,3の高官は出ても、これは異例だ。沖縄人は頭はよくても、腕があっても、結局は高官になれぬと云う実状であった」と述べ、沖縄住民に対する差別扱いに対して怒りをぶつけているわけです。
 このような差別的な扱いは、海外移民の場合にもあったと述べています。大宜味は、「海外に出稼ぎに出かけた沖縄移民は、この差別待遇問題で斗い続けて来たのが過去半世紀の移民悲史である」と述べています。
 特にこの移民の差別問題については、西平論文の中でかなり細かく論じられていますので、関心のある方はその論文を見てもらえたらと思います。
 さらに、琉球の混迷の原因は琉球住民に対する差別以外に、「最も重要な時期に為政者や指導等が先見の明を欠き、政治の方針をあやまり、県政運営上の大綱的、基本的問題の解決を怠ったために、ついに民心起こらず治識も挙げ得ずして、琉球を経済的に後退せしめ財政的危機に陥れたということである。政治家に先見の目がなく今日の琉球の大綱的基本的問題の解決を怠って琉球を混迷に陥入れていることは、今日とよく似ている。今日の琉球政治の現状を見るに、悉く日本復帰または日本復帰したらという前提のもとに政治や教育が行われている。ここに琉球政治の暗さがあり、低迷があり、不徹底が生じ混乱を重ねている実状である」と述べて、大宜味は日本復帰ではなく琉球独立こそが沖縄の進むべき道であるということを、この広告「琉球国民党結成に就いて全琉住民に訴う」の中で非常に細かく述べておりますが、後半部分はちょっと時間がありませんので、皆さんのほうで読んでもらいたいと思います。
 そして、また国民党政府の構想。ただ私ちょっとまだ理解できないんですけれども、これも新聞広告という形で出しているんですね。これ資料の一番最後につけてありますけれども、これも確か広告という形で。
 私は、最初これ新聞の記事として扱うだろうと思って、新聞を調べるとき真ん中を見ていたんですね。そしたら、なかなかこれが出てこないですね。それで、もうあきらめて、これ私の勘違いだったのかなと思って、パッと目を下に移したら下の方に小さく載っているんですね。これも広告という形でした。
 要するに、大宜味は非常に情熱を傾けて独立論を唱えていたんですけれども、しかし、そのとき新聞では大宜味の政党活動を記事として、ニュースとしては取り上げてなかったということです。なぜ取り上げなかったのか、私は調べることは出来ませんでした。
 そして大宜味は、そういう「国民党内閣の構想」も新聞広告で出すわけなんですね。その中で、3行目あたりにこう書いているんですね。「其時の話題は琉球の独立問題であった。彼曰く、琉球の独立問題には吾々も非常に関心を持っている。ホントの話他の四つの反米政党は問題ではない。琉球の住民がホントーに琉球の独立を考えているなら吾々も考え直さねばならぬ。一体琉球が独立すると云うが人物がいるかネ」とこの人が尋ねたら、大宜味は琉球には人物はたくさんいる。そしていろいろな人たちの名前を挙げてるんですけれども、またある本の中では、これは大宜味が勝手に挙げたんじゃないかなとの指摘もあります。果たして、本人たちが大宜味の構想に賛同して名前を出したのかなというと必ずしもそうでもないようなことが、いろいろな方がまた述べているわけなんですね。そのへんが大宜味はちょっと信用がなかったのかなというふうな感じがするんですね。
 それで最後に、「国民党内閣の構想」の中で、財政問題をどうするかという質問に、大宜味は「それは日本政府から戦災賠償金を取ってやると云ったら、戦災賠償金は初耳だ。まだ払ってなかったのか。それはおかしいとほうほうのていで帰っていった」というふうなことを述べておりますが、このようにして琉球国民党は大宜味を中心として琉球独立論を唱えていくわけなんです。
 時間がなくてカットしますが、その今のページの上のほうにあります「琉球は日本時代より良くなった」と。つまり、米軍支配下にあった琉球というのは、かつての日本政府のもとにあったよりは経済的にはよくなっているじゃないかと。ならば、何も日本政府に帰る必要はないんだ。日本本土に帰る必要はないんだということを、広告をとおして訴えております。
 このように、琉球国民党は大宜味を中心としてその政党というのができておりますが、ただ、果たしてどのぐらいの党員がいたのか。そのへんがなかなか見えてこないというのが、私はこの琉球国民党のある面では弱いところというか、あるいは大宜味のワンマン的な政党だったのかなという感じがいたします。
 もう時間がないので、琉球国民党はこれで終わって大体の一連の流れですね。終戦直後の沖縄の政党がどう琉球独立論とかかわっていたかを時間の都合で大急ぎで話しましたけれども。考えてみれば、戦後初期の政党が沖縄独立をどのように主張していたのか。それを沖縄住民はどのぐらい支持をしていたのかなということを、初めに沖縄人民党、それから社会党、共和党、琉球国民党を中心に検討してみたわけなんですけれども、独立論というのはそんなに受け入れられなかった、というのが私の現時点での感想です。
 住民の気持ちは、これはその当時除々に祖国復帰、本土復帰へと流れていって、アンケート調査では1950何年には72%が祖国復帰を望んでいたということで、大宜味、仲宗根らが非常に情熱を傾けて説いた琉球独立論は、住民の中には浸透はしていかなかったというふうな感じがいたします。 そういうふうにして、しかし、我々が研究として、これだけ琉球独立論の議論があったんだということは、私は非常に貴重なことかなという思いがいたします。
 大急ぎでしゃべってしまいましたけれども、最後に比嘉康文さんの『沖縄独立論の系譜』の中からまとめとして、この件だけを引用させてもらいます。「沖縄は常に日本の政治、経済の意向に左右されてきた。1609年の薩摩侵攻以来、復帰後の現在までその状況は変わらない。沖縄自身が自らの将来を決められないままの歴史が続いている。『鉄の暴風』と形容された沖縄戦が終わった後、わずかな時期ではあるが、自分たちの手で理想的な沖縄を建設しようと燃えていたことは、沖縄戦後史の中で特筆されてよいであろう」と。これを引用して終わりにしたいと思います。どうもありがとうございました。
○司会(江上能義)  照屋さんが紹介した比嘉康文さんの「沖縄独立の系譜」というこの本ですね。沖縄タイムスの記者をされた方ですけれども、どういうわけか琉球新報社から刊行されています。やっぱり「琉球」が独立に似合うんでしょうかね。でも、タイトルは「沖縄独立」なんですから、そのへんのところがおもしろいですね。 この本は琉球新報社の潮平さんがきょうたくさん持ってきてくれたんですけれども、今年の6月18日に出たばかりですね。こういう本が今、出るということ自体が沖縄の現在の気分というものを表出しているような気がします。
 それはともかくとしまして、照屋さん、どうもお疲れ様でした。時間の制約があって、大急ぎでとりまとめていただきましてありがとうございました。大体、戦後間もない激動期において政党が澎湃として湧いたときの時代状況というのは、照屋さんの話の中からその輪郭が浮かび上がってきたのではないかなと思います。
 その照屋さんの話を受けまして、きょう東京からわざわざお越しいただいた上原さんにお話をいただきたいと思います。上原さんは、わざわざ二つの種類のレジュメを用意してきていただいて、上原信夫さん御本人の年譜と、きょうお話になる沖縄民主同盟の設立と独立論というレジュメを丁寧につくっていただいております。照屋さんに引き続いて上原さんに話していただいた上で、またご質問あるいはコメントなどをいただきたいと思います。 最初に上原信夫さんの経歴ですけれども、ご本人がきょう持ってきていただいた経歴を見ていただければわかりますように、1924年12月に国頭村奥のご出身です。長い経歴をすべて紹介することができませんけれども、関東軍にも出兵されたり、本当に非常に複雑な経歴のお方です。戦争にも動員させられて、それで沖縄に戻ってこられて、きょうお話の中心になる激動期において沖縄民主同盟の設立にかかわることになります。 きょうは、このへんを中心にお話ししていただくということになりますので、上原信夫さんのこれまでの生涯全体については、時間の関係で多分限定的にしか触れられないと思いますけれども、沖縄民主同盟に関わっていてそれがその後、ここに書かれておりますけれども、1950年、結局、沖縄を出るという形になって、本来はストックホルムの世界平和擁護大会などに、沖縄問題をアピールするために沖縄を出たわけですけれども、シンガポールから香港へ渡ってそれで結局1974年まで中国で滞在されました。24年間中国に滞在した後、帰国されまして、沖縄にも帰ってこられまして、現在は東京にお住まいで中国留学生や研究交流の援護活動を今なおなさっているということであります。 ちょっと一口に私の舌足らずの紹介では上原信夫さんの経歴をお話することはできませんけれども、それよりも何よりも皆さんは上原信夫さんの当時のお話をお聞きしたいと思っておられると思いますので、マイクを渡します。上原さん、よろしくお願いします。