空白だった昭和30年代

書き留めておきたい事が沢山あるのに💨

blogの更新、遅れてる私💦



Twitterで流れてきた。

RT:「〈ヤマトとウチナーの対立〉がTLに流れている。

奄美群島に源流があるワシとしては、奄美がそのヤマトとウチナーに侵略された歴史も忘れないでねとモヤッとした気持ちになる。

その歴史を知らなくても、人の心にその痕跡は残るもの。今でも、沖縄には奄美差別みたいな意識があると感じたりする。」








黒田了一といえば、憲法知事とも云われた元大阪府知事。

RT:「今年(12/25)は奄美の本土復帰65周年です。幼少期復帰運動がありました、その運動(戦後民主主義)の芽(占領期間が短かったので大きく育っていなかった)を摘み取る施策(国の裁量で決まる補助金制度)が奄美で先行実施され、極度に保守的な地域が生れました。大学で黒田了一先生と出会い開眼した!」




せめて、私の伯父が辰巳さん(大阪)と和田さん(奄美)に、沖縄での事を語っていたら、何かが違ってたかもしれないと思いつつ…


なぜ、そうなってしまったのか😢

それは、辰巳さんと和田さんにも、少し伝えたけど😢




和田さん、大阪に住んでた時もあるんよね。

大阪では、その和田さんを頼ってかな…

私の伯父も堺に住んでた時もあるみたい。



関西安陵会にも、共産党との繋がりも和田さんに引っ張られて参加するようになっていったみたいな感じ。

和田さんは、二人と会う事が多くてね

ただ、一方はあれだもんね、意気揚々だよ…

沖縄での事も封印

出世に影響するかもしれんやろしね

和田さんにしたらね、沖縄での事を知らなかった事を今になってスゴく悔やむ



コータロー議員は、今は とにかく

来年の参院選、再選を目指して頑張れ!





1954年メーデーの画像は、沖縄県公文書館にあるのを見つけた。

英語で記録されている。

瀬長亀次郎さん、上原清治さん、宮城倉啓さんも写っていた。

私の伯父は、軍事裁判にかけられ島外退去命令を出される。←人民党事件とは別。

好ましかる人物として、実名入りで本にも書かれている。






処分された学生のその後…

そのうちの1人の方から、お便りを頂いた。

その内容は、琉大の先生方に見せる事はあっても、世間に公開する事は無いだろう。

共産党にも、たぶん見せないと思う。

それにしても、哀しすぎる。




沖縄の闘いを見習え❗とか

沖縄の運動に感動する❗という言葉を、2度と聞きたくない。

何が感動なのかが、本当に理解できない。


朝鮮戦争下で、原爆展

琉大事件とは何だったのか。




昭和34年

私の祖母や母は、親戚などと共に

奄美から大阪へ移住。

戦前に住んでた此花区高見に再び住み始める。

私の伯父は、第2室戸台風の被害対策に、辰巳さんと一緒に取り組んだのかな…

共に、西淀川区内を担当したみたい。

昭和40年代、市営住宅入居の抽選に当たったので、私の伯父は此花&西淀川から離れる。

辰巳さん、その後の人生もスゴく心配してたよ

奄美

奄美の一覧。沖縄の奄美差別 - このブログの存在は知っていたけどね沖縄の偽善者ぶりには、さすがにもう💢( ;-`д´-)奄美復帰55周年 差別と被差別は合わせ鏡https://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/e4a1b8a068f5b8567fb3bbee633aa321「差別」を声高に叫び、それを商売道具のように扱う勢力がある。沖縄左翼もこの言葉を、相手を黙らせる呪文のように唱え、百年前の一業者が行ったことを、今でもイデオロギーに利用していると書いた。⇒百年前の怨念「人類館事件」 沖縄差別の歴史だってそのエントリーで、沖縄人が奄美大島出身者に対して行った差別について次のように書いた。<差別を声高に叫ぶ人間が、本人は意識していなくとも、実は差別主義者である場合が多い。 「差別された」と叫ぶ人間が実は差別主義者であり、彼らがいう差別とは己を映す合わせ鏡のようなものである。 沖縄で差別を叫ぶ人間は、その一方で離島出身者を差別したり本島内でも北部出身者をヤンバラーと差別したり、台湾人やフィリピン人をタイワナー、フィリピナーと差別的意味合いを込めて呼ぶ。 最近では見られないが、米軍占領時代は、奄美大島出身者をオオシマーと侮蔑の意味を込めて呼んでいた。> 奄美大島は今は鹿児島県の一地方となっているが、戦後の一時期本土から分離され沖縄と同じく米軍統治下にあった事実を知る者は沖縄人でも少なくなった。 今年は奄美大島が日本復帰して55周年だという。 琉球新報社説 2008年12月27日奄美復帰55周年 「琉球弧」連携強化の契機に 奄美諸島が25日、本土復帰55周年を迎えた。戦後、1946年2月に米軍統治下に置かれた奄美が53年、沖縄より19年早く本土復帰を実現した。 「民心の結集と血潮みなぎる情熱、行動力」で、主義主張や党派を超え、一滴の血も流さずに平和裏に本土復帰を実現したことが、いまでも奄美人(アマミンチュ)たちの誇りだ。 25日に奄美市内で開かれた記念行事でも、復帰運動で示した奄美人の底力を「後世に語り継ぎ、力強い未来を建設しよう」と誓いを新たにしている。同じ“琉球弧”の一員としてエールを送りたい。 「奄美の特徴は、自然と文化、長寿と子宝、亜熱帯の温暖の気候」と奄美市長の平田隆義さんは言う。 奄美は、もともとは琉球王国の一員だった。1609年に薩

琉大事件を考える(仮称)




昭和30年代が空白やったんやけどね…

それも、だいぶ わかってきました。