このことが一面か…
「乞食行進」住民の声克明/故阿波根さんノート保管 伊江島の窮状記す/55年米軍土地接収「農耕できぬ」
2019年2月11日 05:00
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/383919
【伊江】米軍に土地を奪われた伊江島住民が1955年、本島に渡って窮状と支援を訴えた「乞食行進」の行動記録が、故阿波根昌鴻さんが残した資料から見つかった。「陳情日記」と題されたノートで、当時の琉球政府行政主席に通告した上で乞食行進に踏み切るまでの経緯を克明につづる。当時の生の声を伝える貴重な1次資料で、3月にも刊行される。(北部報道部・阿部岳)=27面に関連
米軍が基地拡大のため伊江島住民の畑などを強制接収したのは55年3月。その後も畑で耕作を続けていた32人が米兵に暴行され、本島に連行された6月13日付から日記は始まる。「テッ拳で両ワキ下をひどくたたかれ」「息も絶へんばかりに強くけられた」との記述がある。
那覇市の琉球政府前に「陳情小屋」を設け、繰り返し面談するが、琉球政府は占領者の米軍に物が言えない。業を煮やした住民は7月19日、比嘉秀平主席と面会し、「農耕も出来ないが、区民は乞食しなければ生きられない」と告げる。この時初めて「乞食」という言葉が登場する。
同じ日の未明、米軍は宜野湾村(当時)伊佐浜でも「銃剣とブルドーザー」による土地接収を強行していた。伊佐浜とも連携していた伊江島住民はその当日に乞食行進の決行を地元トップに通告。2日後、実行に移した経緯が明らかになった。
日記は阿波根さんの実践や資料を受け継ぐ伊江村のわびあいの里が保管。阿波根昌鴻資料調査会の調査で見つかった。代表の鳥山淳沖縄国際大教授は「伊江島や伊佐浜の抵抗が島ぐるみ闘争に発展していく激動期の貴重な記録。本島での活動を記しているため、伊江島住民と琉球政府、米軍、支援者との関係性が読み取れる」と話す。
わびあいの里は日記を活字に起こし、冊子500部を刊行する。学校や図書館に寄贈するほか、一般販売も計画している。2017年の現地記録「真謝日記」に次ぐ第2弾となる。
刊行費用30万円を15日まで、沖縄タイムス社のクラウドファンディングサイト「Link−U(リンクユー)」で募っている。
(写図説明)乞食行進の経緯をつづる「陳情日記」の原本(わびあいの里提供)
(写図説明)故阿波根昌鴻さん
暴虐へ抵抗 共感/伊江住民、伊佐浜と連帯/寄付や物資 行進実る/(26面と見開き)
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/383585
【伊江】米軍の暴虐にさらされ、かといって琉球政府は頼りにならず、ついに「乞食行進」のほかに手段がなくなる。「陳情日記」の記述は1955年、伊江島住民が置かれていた切迫した状況を今に伝える。そんな中でも道理に訴えることを諦めず、一般住民からは支援と共感が寄せられた。(北部報道部・阿部岳)=1面参照
伊江島の住民は沖縄内外に助けを求めたが、宜野湾村(当時)伊佐浜との協力関係は特に深かった。同時並行で土地接収の危機が迫っており、住民同士が頻繁に行き来していた。米軍が伊佐浜の立ち退き期限とした7月18日には、伊江島住民も現地に駆け付けた。
それより少し前、伊江島住民は伊佐浜でこう尋ねている。「陳情資金はどうして居るか」「食糧実状はどうなって居るか」「農耕はどうして居ますか」「病人はどうですか」「水はどうして飲んで居ますか」「住宅はどうですか」。互いに衣食住を米軍に破壊されていたことが伝わる。
伊佐浜住民は、伊江島の闘いに勇気付けられたと語る。「皆様伊江島の人々の奪斗のお蔭で世論を湧かし宜野湾村も全体目覚めて居ます 正功祈ります 正しき者は必ず勝つ信念で貫張って下さい」
非暴力に徹する伊江島住民の武器は事実を知らせることだった。「早朝より母国の新聞社への上書を書く」「阿さんより云ひ付けられた新聞の投稿に行く」。「阿さん」は阿波根昌鴻さんとみられる。乞食行進という直接行動だけでなく新聞も使って世論に働き掛けた。
その結果、あらゆる層の人々から支援が寄せられた。「普天間中高の先生が見舞に」「無名の青年現金六十円寄附」「胡座町A家族三人ヨリ物資寄付」「小禄村具志部落民一同より見舞金」。共感は全島に広がり、やがて土地と暮らしを守る「島ぐるみ闘争」につながっていく。(引用は原文のまま)
本島での行動 詳述 沖縄国際大 鳥山淳教授
「陳情日記」は沖縄が激しく動いていた時代の生の声を今に伝えている。土地を奪われた伊江島住民が本島で行動した記録であり、他者との関係性が読み取れる。
交渉した琉球政府の主席や副主席は米軍に歯向かわず協力する中で解決策を見いだそうとする姿勢が一貫している。しかし米軍に相手にされず、この路線は後に破綻することになる。
米軍は当時、住民の怒りを深刻に捉えていなかった。住民が補償を求めても「議会の承認を得なければ出来ないので一、二ヶ年まってくれ」などと言って当事者意識がない。
追い込まれた住民は「乞食行進」で社会に支援を求める。その過程が詳しく記されている。交流していた宜野湾村(当時)伊佐浜で土地接収があったまさにその日、主席に対して「乞食」という言葉を初めて使ったことが分かる。
改めて驚かされるのは、日々の活動の中でこのような詳細なノートを残していたこと。例えば伊佐浜では現時点でこのような日記は見つかっていない。伊江島では、阿波根昌鴻さん以外の人々にも記録を残す精神が共有されていた。(沖縄現代史、談)
(写図説明)琉球政府前に座り込む伊江島の女性たち=1955年、那覇市(わびあいの里提供)
(写図説明)鳥山淳教授
生活難 苦肉の策/「正しく生きるため叫ぶ」/「乞食行進」記す記述/(27面と見開き)
2019年2月11日 05:00
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/383582
【伊江】「乞食行進」は対政府交渉が行き詰まった末の苦肉の策だった。「陳情日記」の関連記述を原文のまま紹介する。
■対政府交渉
「会見後地主側から只今福主席さんの云はれた事を確実を証明する為に証明書を御願ひしたが福主席 それまでに私をうたがうならば此の事を実現させる事が出来なければ私は職を辞める覚悟をして居るといはれたので地主達はそれではといって帰島の準備に急ぐ」(6月17日)
「与ギ副主席と会談 病人名簿提出したのに十二指腸と頭痛は病気ではないと発言」(7月5日)
「六月十七日副主席の『職をとしても食糧問題を解決する』との確約され 乍(しかしなが)ら何等善処されず区民の生活は日一日と困窮し今や死の宣告にも等しく境地に立たされております」(9月9日、プラカードの内容)
取り上げられた自分たちの畑で耕作していた住民32人が6月13日、米軍に逮捕され、本島に連行された。伊江島に残された妻子も琉球政府に駆け付け、助けを求めた。当時の与儀達敏副主席は子どもたちを学校に戻すよう諭し、全力で米軍と交渉することを約束した。しかし、成果を上げることはできなかった。
■行進決行
「主席と会見 今後真謝区民をどうしてくれるか、農耕も出来ないが、区民は乞食しなければ生きられない」(7月19日)
「警察局長と会見 乞食に立つ事を告げ十時半頃話合を終了」(7月19日)
「午ゴ四時頃より市街に行き御同情を仰ぐ(乞食開始)」(7月21日)
「伊江島の回路乞食は立派な金銭設けと云う片も在る、反面、聞く(子供迄も)一般民に多大なる反影を与えて有る」(8月9日)
「皆さん私たちは正しく生きるために今では街頭に出て叫んでおります 皆さんの世論の力をたよりに生きそして一日も早くこの良心の叫びが受入れられ解決される迄頑張つて行きたいと願っております 何卒御同情御支援下さいますようお願い申上げます」(9月9日、プラカードの内容)
7月21日、乞食行進が那覇市の琉球政府前を出発。各集落を回りながら、本島を南から北まで縦断する。住民たちは当初、「行進」を付けずに単に乞食などと呼んでいた。「金もうけ」と批判を浴びた一方、訴えを受け止めてもらった手応えもつづっている。
1955年に関する記事を見かける度に
このことが、頭をよぎる…
【1979年 沖縄の雑誌『青い海』6月号 古堅実吉「沖縄社会大衆党に望む」】
1955年3月19日ー米軍の土地強奪に反対する沖縄県関西学生会活動で帰省。立法院土地委員会を傍聴した。沖縄人民党の宮城倉啓、大城文進の世話で、米軍の警戒が厳しかった伊江島へ4月20日に潜入。野蛮な土地強奪を調査。
4月13日、那覇の座り込み現場で阿波根昌鴻に会い、伊江島での写真の一部を届け、その日の全島軍用地地主大会に参加。
4月17日まで沖縄各地の調査や資料集めに駆けまわり、写真や資料を大阪に持ち帰った。沖縄県学生会総会で米軍の伊江島土地接収の写真展示。その反響で大阪の県出身者、京大新聞、神戸大新聞、東京県学生会などから写真借用の申し込みが相次ぐ。
5月1日、大阪の県人たちと一緒に「沖縄諸島日本復帰期成会」の旗を掲げて大阪市馬場町広場のメーデー大阪大会に参加。
1955年9月ー吹田市の共産党事務所を訪ね日本共産党に入党。
1956年3月ー関西大学法学部法律学科卒業。帰郷。
古堅さんは1952年~1955年の沖縄にいなかった。
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