2016.06.28 08:58「祖国なき沖縄」より”本土の国民が、沖縄への関心をよせはじめる以前に、沖縄で何がおこなわれていたのかを知り…戦後沖縄史を統一的に把握し、今後の展望をさぐるためにも、読みつがれる書であろう。”
2016.06.28 08:43回想録①那覇市立歴史博物館に刊行物あり。(申請予約してコピーも可)私のオジが写ってる写真が掲載されているのも見つけて、腰が抜けそうになった(ノ_・。)それだけで既に私はクタクタに。
2016.06.23 04:51琉大事件 名誉回復求め 2009年2009年 7月 27日 沖縄タイムス『琉大事件 名誉回復求め/元学生そろいシンポ/平和訴えた誇り胸に』1950年代の米軍統治下で平和運動にかかわり米軍の圧政を批判した学生を、琉球大学が2度にわたり処分した「琉大事件」を考えるシンポジウムが那覇市の県立博物館・美術館であった。*画像は、ワザとぼかしてます
2016.06.23 04:14占領下の沖縄ーある市民の人生奄美出身で大島高校を卒業。終戦後、沖縄は景気がいいらしいと、奄美では食えないので、沖縄へ出稼ぎに行きました。朝鮮戦争が始まっていて、沖縄は基地の建設ラッシュでした。労働条件は、ひどいものでした。琉球大学が設立琉球大学はアメリカの資金援助があったせいか、寮も掃除をするとタダ、学費もタダでした。学をつけようと琉球大学理学部に入学しました。つづく*画像は、ワザと ぼかしてます(>_<)ゞ
2016.06.13 11:30『戦後沖縄史』 新崎盛暉 19760110 日本評論社http://www.arsvi.com/b1900/7601am.htm■内容本書において試みようとしたのは、沖縄戦後史の中間総括である。ここでは、通史的記述をめざしてはいない。むしろ、よりよい戦後史が書かれるためのたたき台の提供、できるだけ多くの論争点の発掘に重点を置いている。それは、これまでの沖縄戦後史の分析・記述に際しては、前提となるべきこうした作業が、もっともおろそかにされてきたことの一つだと考えられるからである。(「BOOK」データベースより)■目次序章 時期区分について第一章 軍事占領初期の動向――45年4月~49年後半第二章 統治方針の確立と日本復帰運動――49年後半~52年4月第三章 暗黒時代の闘い――52年4月~56年6月第四章 島...
2016.06.12 12:28琉球新報 2007年9月『琉大事件について』琉球新報の記事☆2007年5月25日 「琉大事件」が問うもの 比屋根照夫 琉球大学名誉教授 植民地主義への抵抗 米民政府が世論の分断誘導☆2007年9月4日(火) 「琉大事件」処分取り消しを考える上里賢一 琉球大学教授職員会長 資料発掘 継続調査を 全容解明 歴史的位置付けも
2016.06.11 03:17憲法のない島私が、「沖縄県平和記念資料館」へ行った時、『憲法のない島』という催し(パネル展)が開催されていた。1953年の出来事のところに、憲法21条の項目が貼られていたのが、私の心の中に深く刻みこまれた。
2016.06.10 09:34奄美群島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定 1953年昭和28年条約第33号署名日:昭和28年12月24日公布日:昭和28年12月25日効力発生:昭和28年12月25日附属書:奄美群島とは、北方北緯二十九度、南方北緯二十七度、西方東経百二十八度十八分及び東方東経百三十度十三分を境界線とする区域内にあるすべての島、小島、環礁及び岩礁をいう。底本:奄美群島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定及び関係文書・御署名原本
2016.06.10 09:29奄美群島の歴史 現代 アメリカ統治下奄美群島の歴史 現代 アメリカ統治下1945年(昭和20年)9月2日、米軍によって本土から分割され米国民政府の統治下に置かれた。同年9月22日に行われた現地守備隊と米第10軍とで交わされた降伏調印式の際、日本軍守備隊は米軍側が用意した降伏文書に奄美群島が「Northern Ryukyu(北部琉球)」と書かれていることを発見、日本から分割する意図を悟り、鹿児島県所属であることを訴えて調印しなかった。これには米第10軍司令官が譲歩し、鹿児島県奄美群島であることを確認した後に降伏した。1946年(昭和21年)2月2日、正式に日本からの行政分離が連合軍総司令部から発表され、米国民政府の命令により本土出身者が公職から追放、本土に強制送還となった。空席となった役職...
2016.06.10 08:38奄美群島の歴史 近代奄美群島の歴史 近代明治維新後の1879年(明治12年)4月、太政官通達により奄美群島は大隅国に編入され大島郡が設置されたが、これに前後して行われた廃藩置県により薩摩藩が廃されて鹿児島県となり、奄美群島も含まれることとなった。1908年(明治41年)4月1日、島嶼町村制制の施行に伴い、大島郡に16村が成立する。第二次世界大戦中、連合国軍上陸の危険が高まった1944年(昭和19年)7月以降、沖縄と並んで子供や女性、高齢者の本土疎開が進められた。同年9月には疎開船「武洲丸」が潜水艦に撃沈され、約160人の徳之島島民が犠牲となっている。このほか、近海では軍隊輸送船「富山丸」など多くの日本船舶が撃沈された。1945年(昭和20年)3月末からの沖縄戦の間、北隣の...