2020.12.31 00:32今年の振り返り?今年の11月、急性骨髄性白血病により他界。母の葬儀の時、伯父の葬儀の時の話になった。今の私は、母が亡くなったという実感も、まだないという感じ。母が亡くなったことは、しんぶん赤旗のお悔やみ欄に載った(私の父は掲載を断るかなぁと思ってた私)。葬儀の日には、私の父宛てに志位委員長から弔電が届いた。それは、父が喪主だったからだろう。ってそれらの経緯は、ぶっちゃけ私にはわからない。しんぶん赤旗のお悔やみ欄に載ったのは、家族葬が終わり、12月に入ってからだったしね。
2020.12.18 16:39いのちの理由私、12月生まれ先日、母が亡くなったばかりそれだけに、今年の誕生日は母から電話が、かかってくることもないしそれどころか母の身体じたいが、骨となり…それでもというか私は、母の身体から生まれてきたわけで、だからこそ、今の私がいる。母がいたからこそで、今の私があるわけで、その母の人生は、どういう人生だったか。母は、幸せだったのかそれは、私の父が かなり葛藤している事が、母の葬儀の時に痛感した。母は幸せだったのか、それは次の世代の者が、どう生きるか…天国から見守っていてくれとも。「いのちの理由」
2020.12.18 16:27私の母の場合私の母は、沖縄での事を全く知らされていない。 この記事が出た頃には、脳梗塞など患っていた。 私は私で、偶然の繰り返しが続くことに。 私にしたら、何もかも偶然。
2020.12.07 21:34母が亡くなりました私が思い出すのは、高見での生活の事ばかり。伝法団地の時は、母は残業で帰宅が遅い毎日となり、私が夕飯の準備。タイヘイファミリーセットとかも利用していた。週に1度は、共産党の人が我が家に集っていた。共産党といっても、それは父の裁判を応援する人達なのか、私には それはわからなかった。佃では、コーポの人であったり、共産党は共産党でも、地元の党員なのか、父の裁判を応援する人達なのか、わかり易かったし、何より辰巳さんの存在。太陽みたいな存在だった。週に1度、我が家で集まるのは恒例で、その時は両親は、おでんをたくさん作って皆で食べたり、とにかく楽しかった。そういう思い出は、妹ら(次女&三女)には無いのよね…このパンフレットには家族の写真も掲載されている。その写真を撮...
2020.12.03 20:08此花区高見*ラサ*『けーし風』第30号(2001年3月.特集:大阪のなかの沖縄)■座談会 三世代のユンタク 屋良朝光・金城馨・大城康代 司会・仲間恵子「屋良 父、朝栄は此花区(当時は西成郡稗島)のラサ島工業で働いていた。北大東村のラサ島(現沖大東島)から燐鉱石を採掘してきて精製し、化学薬品や肥料などを製造している化学工場で、一九二〇年ごろにできた会社。労働者の八〇パーセントは奄美、沖縄の出身だった。先輩、知人、友人を頼って集団で生活圏を形成していた。ラサ工業のなかに県人会もあった。活動は親睦とともに労働者の権利を守る目的があったと聞いている。此花区ではラサに勤めているウチナーンチュは、借【ママ】家を借りるときに保証人が必要だったが、住友系に勤めている人は保証人はいらなかったらしい。[…]戦前、此花区の県人会には三〇〇人ぐらいおった...