北緯三十度分断 奄美・軍政下を生きて

この記事の中で、この問文が心に刻まれる。


今、奄美で生き、奄美に関わる人々が未来へ向かうためには、
原点を知ることが何より大事と考えている。
「当時を知る人に話を聞き直すには、今が最後かもしれない」。
そんな思いが、これからの原動力になる。



http://mainichi.jp/articles/20160219/ddl/k46/040/226000c
北緯三十度分断
奄美・軍政下を生きて/3 石神京子さん 復帰願う女性たち

毎日新聞2
016年2月19日 地方版

 1946年2月から7年10カ月に及ぶ奄美群島の米軍政下時代、困難な生活を支えた女性たちも日本復帰を願って活動した。奄美大島で婦人会の一員として取り組んだ石神京子さん(77)は2005年、日本復帰50年(03年)と戦後60年を記念した冊子「奄美女性たちの戦後史」で、そんな当時の動きを声としてまとめた。そして軍政下に入って70年の今年、再び「女性の声を残そう」と誓う。

 自身も、戦中と軍政下、復帰後の奄美をその目で見てきた。

 出身は大和村。戦中の45年2月ごろ、日本軍の輸送船が米軍機に追われて近くの海に逃げてきた。約100人の乗組員のうち、7人が負傷して、村に運ばれてきた。うめき声を6歳だった石神さんも聞いた。地域の婦人会が世話したが、やがて亡くなった。18、19歳の若い兵隊たち。「『天皇陛下万歳』ではなくて『お母さん』といって亡くなった」と世話した女性たちは悲しんだ。

 終戦間際、兵舎となっていた学校の校舎はB29爆撃機に爆弾を投下され、無くなった。戦争が終わって学校が再開しても、学年が下の方になると、授業の場所は神社の階段や木陰。上の方の学年は、かやぶき屋根の掘っ立て小屋が校舎だった。

 大和村の助役だった父は、終戦後すぐに辞職した。自給自足しないと生きていけないからだった。米軍政下に入った46年は毎日の食事が芋やソテツがゆ。栄養状態は極めて厳しく、周辺では伝染病も流行し、ひと晩のうちに一家全滅も珍しくなかった。

 石神さんは、山で食べられる植物を探す方法や、毒があるソテツを水に長時間さらして食べられるようにする処理の仕方を今も覚えている。現在は国の特別天然記念物のアマミノクロウサギを、毛を燃やすために五右衛門風呂の火に放り込んだ父の姿も鮮明だ。

    ◇

 日本に復帰しないといけない。それが、人々の共通した願いだった。孤児(奄美)による「お母さん(日本)、助けて」。そんな叫びが復帰運動。「母」である婦人会の女性たちも立ち上がった。当時の役員たちが53年6月にはルーズベルト元米大統領夫人と福岡県で面会、日本復帰を懇願し、暖かい対応を受けたことが今に伝わっている。

    ◇

 石神さんは、そんな自分たちの母親世代の活動が風化してしまうことを懸念する。今、奄美で生き、奄美に関わる人々が未来へ向かうためには、原点を知ることが何より大事と考えている。「当時を知る人に話を聞き直すには、今が最後かもしれない」。そんな思いが、これからの原動力になる。
【津島史人】



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