沖縄の奄美差別

このブログの存在は知っていたけどね

沖縄の偽善者ぶりには、さすがにもう💢

( ;-`д´-)


奄美復帰55周年 差別と被差別は合わせ鏡

https://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/e4a1b8a068f5b8567fb3bbee633aa321

「差別」を声高に叫び、それを商売道具のように扱う勢力がある。

沖縄左翼もこの言葉を、相手を黙らせる呪文のように唱え、百年前の一業者が行ったことを、今でもイデオロギーに利用していると書いた。


⇒百年前の怨念「人類館事件」 沖縄差別の歴史だって

そのエントリーで、沖縄人が奄美大島出身者に対して行った差別について次のように書いた。


<差別を声高に叫ぶ人間が、本人は意識していなくとも、実は差別主義者である場合が多い。

「差別された」と叫ぶ人間が実は差別主義者であり、彼らがいう差別とは己を映す合わせ鏡のようなものである。

沖縄で差別を叫ぶ人間は、その一方で離島出身者を差別したり本島内でも北部出身者をヤンバラーと差別したり、台湾人やフィリピン人をタイワナー、フィリピナーと差別的意味合いを込めて呼ぶ。

最近では見られないが、米軍占領時代は、奄美大島出身者をオオシマーと侮蔑の意味を込めて呼んでいた。>


奄美大島は今は鹿児島県の一地方となっているが、戦後の一時期本土から分離され沖縄と同じく米軍統治下にあった事実を知る者は沖縄人でも少なくなった。



今年は奄美大島が日本復帰して55周年だという。

琉球新報社説 2008年12月27日

奄美復帰55周年 「琉球弧」連携強化の契機に

 奄美諸島が25日、本土復帰55周年を迎えた。戦後、1946年2月に米軍統治下に置かれた奄美が53年、沖縄より19年早く本土復帰を実現した。

 「民心の結集と血潮みなぎる情熱、行動力」で、主義主張や党派を超え、一滴の血も流さずに平和裏に本土復帰を実現したことが、いまでも奄美人(アマミンチュ)たちの誇りだ。

 25日に奄美市内で開かれた記念行事でも、復帰運動で示した奄美人の底力を「後世に語り継ぎ、力強い未来を建設しよう」と誓いを新たにしている。同じ“琉球弧”の一員としてエールを送りたい。

 「奄美の特徴は、自然と文化、長寿と子宝、亜熱帯の温暖の気候」と奄美市長の平田隆義さんは言う。

 奄美は、もともとは琉球王国の一員だった。1609年に薩摩藩による琉球侵攻で分断されたが、言語、民謡、食文化など共通点はいまなお多い。

 三線と島唄、8月踊り、亜熱帯性海洋気候を生かした観光、基幹作物のサトウキビ、黒糖をフレーバーに使った泡盛と同じ黒糖焼酎、大島紬(つむぎ)など織物文化などだ。

 沖縄より先に本土に復帰した奄美では「沖縄振興開発特別措置法」の源流ともいえる「奄美振興開発特別措置法」の下で政府のキャッチアップ政策が展開された。

 しかし沖縄同様、本土との所得格差や高失業、高い公共事業依存の第3次産業に特化したいびつな産業構造と、悩みや課題も重なる。

 異なるのは、奄美には広大な米軍基地がないこと。そして、人口が減少し続けている点だろう。奄美群島の人口は本土復帰時の半分の12万人にまで減っている。

 いま「健康長寿」「癒やしの島」を核に国際港湾の整備によるクルーズ船誘致など観光での地域振興を模索している。島しょ型観光では沖縄の経験が役に立つ。

 折しも来年は薩摩の琉球入りから400年の節目だ。戦後、別々の振興法下できた奄美と沖縄が「琉球弧」連携を強化し、新しい島しょ型振興策で相乗効果を発揮したい。





きれい事を書き連ねたこの記事を読んでも、沖縄人が奄美出身者に行った差別に関しての記述は一言もない。

他人に対しては些細なことでも「差別」だと騒ぐ者は己が行った「差別」を語ることはない。



同じく「奄美復帰55年」を連続特集した沖縄タイムスはどうか。

米軍統治下の沖縄で生活した多くの奄美出身者に、当時の沖縄、そして故郷奄美大島の状況を取材しているが、

「大島差別」については連載三回目に

「強い反感、休職も厳しく」と題しては触れているが・・・。


加計呂麻島(鹿児島県瀬戸内町)出身で、現在も那覇市に在住の内山照雄さん(75)が当時の苦労話を語っている。

だが、タイムス記事には「差別」という言葉は一言もない。

該当部分を抜書きするとこうなる。


<(沖縄での就職で)面接票に「奄美大島」と書いた途端に門前払いされた。半年たっても仕事が見つからない。 なのに、「大阪」とごまかして書いたらすぐに採用された人もいた。

「事件があれば『大島か宮古』といわれた。 騒然とした時代、周辺の島々から食っていけない人がどっと、押し寄せていたから、反感もあったのでしょう」>


内山さんは、自分が受けた沖縄人の冷たい仕打ちに対して

「騒然とした時代、周辺の島々から食っていけない人がどっと、押し寄せていたから、反感もあったのでしょう」

と、恨み言を言うのでもなく「反感」という言葉を選んで、「差別」という言葉は使っていない。

だが、まぎれもなく、この仕打ちは差別以外の何物でもない。

これが逆の立場だったら沖縄タイムスは「沖縄人差別だ!」と、大見出しで騒ぎ、抗議集会でも煽っていただろう。


沖縄人の「奄美差別」に関しては、地元紙は黙して語ろうとしないが、

最近刊行された異色の沖縄レポート『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』(佐野真一著)でこれに触れた記述がある。

この沖縄現代史の恥部とも言うべき「奄美差別」について記した部分を同書から抜書きしておく。

<1953(昭和28)年12月、奄美諸島は縄に先駆けて本土復帰を果たした。それから本格的な奄美差別がはじまった、と奥はいう。(・・・)問題は、彼らに対する沖縄人の露骨な差別と非人間的な扱いだった。この事実はほとんど知られていない。というより、沖縄の戦後史の暗部として、なかったことになっている。(・・・)>

<「いま沖縄には奄美出身者が5万人いるといわれていますが、自分から奄美出身者だと名乗る人は、めったにいません」>


本土から差別されたと拳を突き上げ絶叫する沖縄人は、その一方では奄美人を差別する。

那覇の国際通りの基礎を作ったのは、実は奄美出身者だったことは昔の国際通りを知る者には公然の秘密である。


「奄美差別」を知る沖縄人も今は少ない。


過去の沖縄人による差別を糾弾する奄美人の声を聞かない。

沖縄左翼もそろそろ被害者意識を商売道具に使うことを止めませんか。


「本土の沖縄差別」を声高に叫んだら、奄美出身者に笑われますよ。

「お前だけには言われたくない」って。



他にも…



<沖縄の奄美差別>

https://ja.wikipedia.org/wiki/沖縄の奄美差別

戦後アメリカは、沖縄県と鹿児島県奄美群島を日本より分割し軍政下に置いた。
このため両者の経済は癒着し、本土との流通を閉ざされ経済が疲弊した奄美群島の住民は、経済活動の中心地となった沖縄本島に職を求め移住するということが多くなった。
しかし、奄美群島は沖縄県より早い1953年には日本に復帰し、それ以後、沖縄県が返還される1972年までの約20年間にわたり、移住していた6万余人に及ぶ奄美群島出身者は、「在沖奄美人」と称されて様々な社会的制約をうけることとなった。
琉球列島米国民政府と琉球政府が行った政策は以下の通りである。 


公職追放
琉球政府行政副主席兼立法院議長泉有平、琉球銀行総裁池畑嶺里、琉球開発金融公社総裁宝村信雄、琉球電信電話公社総裁屋田甚助、他ほぼ全ての公務員


参政権剥奪

「琉球住民」への転籍に対し厳しい条件の導入


引揚時に所持金制限(最高7200円)を課す


公的融資からの締め出し、厳しい債務取立


土地所有権の剥奪


政府税の外国人優遇制度を認めない(奄美群島出身者以外の日本国民には認められた)


他に民間でも、賃貸住宅への入居契約や商取引などの拒否が横行した。

 

これらの政策は沖縄本島住民が、奄美群島出身者によって職を奪われるとの危機感のもと、琉球列島米国民政府に陳情したことによる。

また当時の沖縄タイムスなど在琉マスコミもこれを容認し、さらに奄美群島出身者を敵視する報道を行った。

これらは日本本土の国会でも問題となったが、沖縄県がアメリカ統治下のため、それ以上の干渉が出来なかった。

沖縄返還により、以上の奄美群島出身者に対する制度的差別は撤廃された。




https://himawari0007.amebaownd.com/posts/1012003?categoryIds=485139

<第三章> Ⅳ 復帰運動の歩み
奄美復帰運動の評価
*沖縄、小笠原返還同盟全国理事、
県本部副会長、何故支部長 吉田慶喜
『南海日日新聞』1965年10月27日~30日 
【在沖縄奄美出身者その法的地位】と題する論文を寄稿している。
 吉田は「これは(奄美出身者の不当な差別待遇)アメリカの20年にわたる沖縄占領の布告、布令体制の中で作り上げられてきたものであり、その植民地的政策をもっとも露骨に現したものである。しかも、沖縄の支配者であるアメリカは、沖縄が祖国から分離されている中で一足先に復帰した奄美の出身者を、沖縄県民よりひどくみじめな状態に追いやることで、占領支配を下から支えるてことして利用してきたのである」

 吉田慶喜は、いちおう奄美出身者が政治的、経済的に差別され、惨めな生活を余儀なくされているその根源は、アメリカの占領支配にあるという点を認めながらも、続いて次のように言う。

「多くの人達(奄美出身者)が沖縄でありつけた仕事といえば、軍労務それも重肉体労働の下働き、この労働条件は、自分一人食うのがやっとという低賃金、畳、かや、食器さえ満足にない飯場での生活、いつ首切られても文句一ついえないひどいものであった。沖縄の人々からもあらゆる犯罪をまきちらすやっかいもののようにみられた。これは、悲しい過去であるが、忘れ去るわけにはいかない。

 こういう苦しみから解放を求めて闘った復帰運動のかいあって、1953年8月8日”奄美の復帰”が発表され、このニュースで島は喜びに湧き返った。」

 こうした観点に立てば、沖縄県民も敵対者として向こうに回すことになる。しかし、復帰運動の歴史は、このような見方が誤りであることを実証している。




私の伯父の場合はね…


朝鮮戦争下で原爆展、琉大事件とは何だったのか

琉大事件を考える(仮称)

第一次琉大事件に関する情報を集めています。